2010年1月6日水曜日

歩くの12段活用




私の心に「言葉」が大きく影響をしている事に気がついたのは、最近の事だが、これが人にも応用できる事に気がついた。

この話をどこからどこまでしたらいいのかわからない。長くなるかもしれない。S子ちゃん、ごめんね。

どうも人は同じ言葉を繰り返し繰り返し頭の中でとなえているようだ。そしてその言葉によってその人の体、考え、生活習慣、くせが、知らず知らず作られていくのかもしれない。しかしそれにひとたび気がついて、その言葉を意識的に排除していけば、どんどん解放される。そんな実験をやってしまった。



母は、指の骨や、背骨の腰椎や胸椎の10個や20個の再生は、お茶の子さいさい(背骨事件)なのに、こと歩く事だけはどうにもこうにもうまくいけない。粉々になった背骨を意識で再生できるのに、ふつーに人がやっている歩く事だけはうまくできないらしい(どんなんや)。

私が小さい頃、父と母と3人で歩いていても、いつのまにか父は先を歩き、母はずっとあとを歩いていた。私はその二人の間を行ったり来たりしながら歩く。そのうちどんどん二人の距離は離れていき、ついには母はみえなくなる。
「おかあさ~ん、はやく~」といって、よく父と先で待ったたものだ。

母は、足が悪いわけではない。骨密度は40代。肉体も74歳にしては大きい。筋肉も衰えていない。なのに、母は足がもつれるとか、お尻のほっぺが痛いだの、足の裏がころころしてうまく地面に足がつかない、などとふしぎなことを言ってよたよた歩くのだ。このごろますます歩けなくなった。民間療法を駆使してありとあらゆる事をやった。そのおかげで、ちょっとどこか具合が悪くなると何かしらを処方してすぐ治す。人の病気もそうやって治してきた。
しかーし!歩く事だけはどうにもこうにも民間療法でなおらないらしい。だから歩けなくなったと言っては医者にいき、いつもどこの病院にいっても言われる言葉は
「毎日15分でいいから歩きなさい」だ。
で、行ってきては、うれしそうに私に報告をする。
「あのねえ~、私、どっこも悪くないんだって。で、私は毎日15分間歩くだけでいいんだって!あしたからするきねえ~」
私はこの言葉を何百回も聞いた。で、歩いたためしがない。

このふしぎな(?)現象をどうにかして解決したいと思い、ひたすらその事について母と話す。そしてひょんなことから母の心が見えた。

母は四六時中「歩く」ことに集中していたのだ。
変な話じゃない?右足を出したら、次は左足。左足を出したら次は右‥ってねえ、あなた。そんな風に考えて歩く人っている??ところが彼女は大まじめにそれをやっていたのだ。
「ちゃんと歩かなきゃ、ちゃんと。はやく歩かなきゃ、はやく」
彼女は歩くたびにそういって自分に言い聞かせていた。それはまさに小さなときからのトラウマだろう。いつも「遅い!」と言われていたからだ。私も含めて。

だから朝起きるとまず最初に頭に浮かぶ事は、歩く事だ。トイレにいくためには歩かなくてはいけない。だから彼女は布団の中で足をさする。
「ちゃんと歩けますように」と。
よたよたと這いずり起きて、そこらへんの壁にしがみつきながら歩く。「右、左、右、左、1、2、1、2、」無事トイレを終了してもまた歩く事に集中する。
朝ご飯を食べてゴミ出しをする。さて、歩かなくてはいけない。そこでも考える。もっと大変なのは、出かけるときだ。彼女は、今まで一度も歩いていて転んだ事がないくせに、転ぶ事が死ぬほど嫌で、転ばないようにテッテー的にコースを練り上げる。今は何時だから、あのコースを通ってあの道を歩く。すると信号機にぶつかるから、そこで一休みできる。でも電車道を通る時は急がないといけないから、ああ、転んだらどうしよう‥。などなどあの手この手を考える。で、頭がいっぱいになって結局出かけるのをやめてしまう。これじゃ医者に言われても歩かないわけだ。練りに練り込んでいる間に、気が疲れてしまうからだ。

歩く、歩かない、歩きたい、歩くとき、歩け、歩かなければ、歩こう、歩ける、歩きたくない、歩けますように、歩くんだ!‥‥。
すごい!「歩く」の12段活用!
彼女の頭の中を24時間態勢でこの言葉が渦巻いていたのだ!私は自分の母でありながら、あきれてしまった。

これを、例えば、胃の悪い人に例えてみよう。
目の前にあるおいしそうな料理を見て、
「これを食べたら胃が消化してくれるかな?」「してくれなかったらどうしよう」「せっかく食べてもあとで吐いたらどうしよう」「苦しくなったらどうしよう」「この食べ物を食べたせいで、病気になったらどうしよう」と、考えて、果たして胃はちゃんと消化してくれるだろうか。どっちかというと、その思いだけで気持ちがいっぱいになり、食べるのをやめてしまうだろう。

誤解を招くといけないので前もって言っておくと、これは健康な人の場合と考えてほしいのだが、私たちが日常歩くという行為にいちいち気をとめたりするだろうか。元気なときに胃の事を考えて食べるだろうか。考えはしない。考えないのに、胃は勝手に消化してくれるし、足は勝手に歩いてくれる。むしろ右、左と考えれば考えるほどぎくしゃくしてしまい、あしがもつれる。食べるときも胃の事ばっかりに集中して食べるとなんだかもたれてくる。つまりその事を考えるということは、それがちゃんと機能してくれているのだろうかという疑いをもっているのだ。

母も同じだ。言葉では歩ける!私は歩けるんだ!と言っていても、その心持ちの背後に「歩けないからそういい聞かせている」という心理が張り付いている。だから心の中で言えば言うほどもっとぎくしゃくする。

という事は、私の自己嫌悪発病と同じじゃないか?と思い始めた。自己嫌悪する心をやめてみたら、自己嫌悪が消えていったように、母の頭の中から「歩く」という言葉を消したらどうなるのか。

「おかあさん、今から「歩く」という言葉をあたまから意識的に外してみて」
私は自分の自己嫌悪、ちゃんとしなきゃ病を克服していったいきさつを話した。母は自分がどれだけ歩く事に執着していたのか、気がついたようだった。



さて、お正月もすぎて気になっていた事を母に聞いてみた。
「ねえ、あれからどうなった?」
「え?なにが?」
「歩く事よ。ちったあ歩けるようになった?」
母いわく、
「歩く?歩きゆうよ。なにか?」

はー、のど元すぎたら熱さ忘れるっちゅうのんはこの事か。

母はあれから歩くという言葉を消していったようだ。そうすると体が軽くなって普通に歩き出した。すると自分がさっさと歩いている事さえも気がつかない。
だもんで私が聞いても、何の話だったかさえも忘れていたのだ。

ニンゲンちゅうもんは、あんがいものすごーい単純な構造になっているのかもしれん。忘れる事が体の機能をうまく動かせるのかもしれない。いらん事考えるから、うまくいくものもいかなくなるのかもしれない。

そんな実験をさせてもろうたわけです。

ちゃんちゃん。


絵:コージーミステリー表紙

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

私、時折階段(降りるときっす)の手前で、「ん?右からか左からか?」って迷う時があります。
ま;あ、対手は歩幅調整して、何となく降りてますが・・・。
何年か後に、階段下に落ちてる私が発見されたら、そおゆうのが原因かも知れない。
と思ってください・・・。

つくし さんのコメント...

。。。。。

ほどんど、酔っぱらったときのオヤジジャグだ〜。

じゃあ、転がっているのを見たら「ん?ぼけたな」といって知らん顔しよう。