2013年5月30日木曜日

引き寄せたくもないものを引き寄せる



意識されたものは現象化する。

引き寄せの法則というのがあるが、あれはまんざらウソではない。あれがよかったのは、意識がモノを作り出していることを意識化させてくれたことなのだ。

ある日、Bくんは、Aくんのルーズなところをみつける。
Bくんは、
「え~~、あいつ、そんなところがあったんか。。やだな。。」
とおもう。
すると、そんなことをされるのがいやだから、Bくんは、Aくんの行動が何となく気になり始める。だって、またイヤなことされたらいやだもん。
だから、しらずしらずのあいだに、いつもAくんのことを目で追うようになってくる。
すると案の定、Aくんは、またルーズなことをやった。
「あ~~っ!あいつまたやりやがった!」とおもう。
そのとき、はっきりとBくんの中に、「Aくんはルーズな人」という信念が生まれる。

この世は証明にあふれている。
まず、仮説を立てる。
「Aくんはルーズかもしれない。」
仮説を立てた科学者は、その仮説があっているかどうか、確認をしようと観察を始める。
すると、Aくんはルーズなことをする。
仮説を立てた科学者は、やっぱりそうだ。あいつはルーズなんだ!とおもう。
すると、Aくんは、またまたルーズさを披露してくれる。
こうなると、仮説は確信になる。立証されたわけだ。
結果、Aくんは、ルーズなヤツである。という定説がBくんの中に出来上がる。
するとそこから先はもうそのような目でしか彼を見ないので、彼は一生ルーズを演じてくれるわけだ。
めでたしめでたし。

と、こーゆーふうに、意識されたものは現象化しているのだ。
ところが、
あれほしい~って、意識したものは、じぇんじぇん現象化してくれない。なぜか。

たとえば「Aくんはルーズではない。」と、意識したとする。
これって現象化するとおもう?
ぶっぶー。

BくんはAくんがルーズであるという前提であるからなのだ。そのルーズさがいやだと言うのが基盤になっているのだ。だからそれが顕われる。どこに自分の「信念」があるか、を表現してくれている。

お金持ちになりた~い、というのも、前提に「おれはビンボーだ」という信念があるから、この世の現象としては、「ハイ。ではそのように。」と、ビンボーを現象化してくれているのだ。

この世はすでにエデンの園で、おもったことがちゃんと現象化している。
だがニンゲン種は、まだ自分のおもったことや、確信していることを意識化しきれていないから、
「おれ、こんなことおもってねえよ!」とキレるわけだ。

気に入らないことがあると、それはその人の心の中に、そう言う信念があるからだと、この世はおしえてくれているようだ。

心の中を見させられてるってこわくね?


2013年5月29日水曜日

いけないとおもえばおもうほど、いけないことをする



きちんとしなければいけない。
そうおもえば思うほど、ちきんとできない自分がいる。

人にやさしくあらねばならない。
そうおもえば思うほど、人にやさしくない自分がいる。

まちがってはいけない。
そうおもえば思うほど、まちがいだらけである。

逆説的なのだが、なぜかそうあらねばとおもえばおもうほど、逆の方向に進んでしまう現象が起こっている。

だが、
ちきんとしてなくていいや。
とおもえば、なぜかきちんとしているじぶんがいて、

人にやさしくなくていいや。
とおもえば、なぜか思いやれる余裕ができて、

まちがってもいいや。
っておもえば、自分のまちがいに気がつき、おなじことを二度繰り返さないようになっている。


以前、人に意見をしたことがあった。
一悶着あった後で、ずいぶん後悔をした。あの時ああ言わなければ良かった、いやこうすべきだった、とえんえんと心が騒ぐ。その人も私を避けるようになり、ああ。。嫌われたんだ。。。と、がっくりきた。心はもんもんとし続けた。
さんざんそのおもいにエネルギーを使い果たして、ふと思った。
「嫌われてもいいや」

私はその人がとても好きだったのだ。だから無意識に嫌われることを恐れていたのだ。心は動揺した。そして何度も心の中で言い訳をした。
だけど、いいや。一生嫌われてもいいや。と、心が開き直った。その時カラダが軽くなっているのに気がついた。

それから不思議な現象が起こった。
その人は依然と同じように、わたしに接するようになったのだ。

嫌われてもいいや。
とおもえば、嫌われなくなっていた。



2013年5月28日火曜日

加害者でいいじゃないか




去年ウチの大家さんに、庭が草でぼーぼーなのをとがめられた。
「もう。もう。こんなになって。。。!」
と、ひとり言のようにつぶやきながら、ぶちぶちと草を引きちぎっていた。

ここに一つの法則がある。
庭をきちんと手入れしていることが、正しいことである。
庭の草がぼーぼーなのは、まちがっていることである。

よって、庭を草ぼーぼーにしているわたしは、まちがった人なのである。
判決、有罪!
すると自分を裁き始める。

やばい。ちゃんとしてなかった。ああ、ちゃんと草を抜いていれば、おこられることはなかった。どーしよー。
心はどんどんエスカレートし、家を追い出されたらどーしよー、という恐怖のズンドコに入った。

するとその罪悪感に耐えられなくなったヤツが、反論し始める。

そんなこといったって、どうよこの庭。木だらけじゃないの。こんな面倒くさい庭、職人にしか扱えないわよ!管理しろってえのがムリな話よ。毎日忙しーのよ、あたし。あたしは庭師じゃないっつーの!

すると気の弱い方のあたしが、
だめよー、そんなこといったらー。大家さんに追い出されるわよー。ああ、ちゃんとしとくんだった。ああどーしよー。。。

すると気の強い方のあたしが、
何言ってんのよ。あんた、賃貸滞納したことあんの!?一度もないでしょ。そんな人追い出すはずがないじゃないの!

え~~~、でも、そうはいってもあたしの方が悪いんだし。。。。。

と、えんえんと一人芝居するやまんばがいた。罪悪感のオンパレードである。
しまいにその罪悪感一人芝居に疲れて、ふとあることばがよぎった。

「加害者でいいじゃないか」

被害者という立場は文句をいうがわで、なにもしなくてもいいけど、加害者は悪者である。悪者は裁かれないといけないという法則の中にいる自分に気がついた。
大家さんにとってわたしは、質の悪い店子で、悪者で、加害者である。

だとしたらどうだというのだ?

そのとき肩の荷がおりた感覚になった。

今まで、被害者にはなってはいいけれど、加害者だけはなってはいけないとおもっていた。だけどじっさいは私は今までいろんな人に迷惑をかけて、知らないあいだにいくらでも加害者になっていたはずなのだ。

知らなかったら加害者になってても良かったのか?意識化されたものはそうであってはいけないのか?
それは自分に都合のいい解釈じゃないか。



加害者でいいじゃないか。
なんということばなのだ。
罪悪感の塊であった私にそれはあってはいけないことばだったのだ。だがそれが不意に心の奥に入った。
それは自分で自分の悪い部分を受け入れた瞬間であったのかもしれない。


それから私は庭が草でぼーぼーなのが気にならなくなった。時期が来れば適度に草むしりをする。もう庭を見て罪悪感を感じなくなっている自分をみつけた。


絵:オリジナル「インドでヨガ」



まちがってはいけないの?



人として正しくないことをしてはいけないという倫理観。

これはとっても抽象的な言葉。
だって「正しい」とはあまりにも漠然としていることばだもの。

その正しさは、時代によってコロコロ変わるし、立場によってもコロコロ変わるし、視点によってもコロコロ変わる。そんなコロコロ変わる「正しさ」を、その人の視点の「正しさ」だけで判断している。
人それぞれ違う正しさの中で、それぞれが正しさを主張しあっている。

国会で議論ばかりしているのを見てうんざりしないか?それぞれがそれぞれの主張ばかりで時間が過ぎていくのを見たことないか?あげくに感情論で罵倒しまくる、エリート大学を出て、エリートコースを歩んだ、えら~い政治家さんたちを見て、こいつらがホントに国を動かしてるんかと不思議におもわないか?

そんな遠くの人たちの話はどうでもいいことだった。もっと自分に引き寄せて考えてみよう。

それだけ私たちは自分の正しさに執着している。
正しくなければいけない→正しくないとニンゲンではない→まちがってはいけない
ということは、「そうでない自分が許せない」となる。
二極思考のもっとも重要な欠点がここにある。
まちがっている→まちがっている人を裁く

だから相手に指摘されて「おれまちがっているかも知んない。。」とおもった瞬間、自分を裁く行為が始まる。するとまちがってはいけないというおもいで心が張り裂けそうになって、
「いやいや、ちがう。そうではない。おれは正しいんだ!」
と、もう一方の意識が動き始めるのだ。

もし、まちがってもいいというアイディアがあれば、自分がまちがっている可能性を真正面から観ることが出来る。例えば、人がまちがったことをしているのを見るとき、こちら側は何の感情も入れずに淡々と見ることが出来るように。

たったそれだけのことなのに、私たちにはできない。
自分がまちがっているかもしんない!とおもった瞬間に、感情がびくっと動くのだ。
するとそこから先にいけなくなる。
まちがってはいけないという法則が、壁のように立ちはだかり、それを吟味することをこばむのだ。

これが自分を見ることが出来ない要因になっている。

まちがってていいじゃないか。
失敗していいじゃないか。
ニンゲンはまちがうもんだし、失敗からいろんなことを学ぶ。
そもそもまちがいってなんだ?失敗ってなんだ?

心の部屋の中にぐちゃぐちゃにつみあげられたもののほとんどは、罪悪感というホコリにまみれているだけなのだ。まちがうという罪悪感、失敗という罪悪感。
だけどそれは『事実』ではなく、あなたがそう思っているというだけなのだ。


2013年5月26日日曜日

あんたは悪くない



「おれは悪くない!」
そうです。あなたはなんにも悪くない。
あなたはあなたの生まれ育った環境からその道理を学んで実践しただけのことなので、完全に正しい。
そして相手も、完全に正しい。なぜなら、その相手も生まれ育った環境から道理を学んでそれを実践しているのだから。

どっちも正しい。
正しいことをそれぞれがやっているだけで、それを「おれが正しい」と主張するのがケンカと言う。

ケンカがいつまでも収集つかないのは、自分の正しいことの主張に忙しくて、相手の正しさを見る余裕がないからである。

ほら、ケンカしている二人を第三者がはたからみてると、
「そりゃ、そっちの立場になりゃ、怒るのも無理ないわよねー。だけど、あんたの気持ちもワカランでもない」
と、どっちの立場も見れる。すると、どっちも正しいのがわかる。
中にはどー見てもあんたが悪いってのもあるけど、よーく観察してみると、そのいかにも悪い奴でさえ、そうせざるをえない切羽詰まった何かがある。だからやっぱり彼の立場に立てば、「正しい」のだ。

そう考えると、自分の正しさを主張する必要もなくなってくるんだが、なんでそうなっちまうかと言うと、ここで倫理観が登場する。
小さい頃、とくとくと説かれた「倫理観」である。
人とは正しくなければいけない。
人として間違った行為をしてはいけない。

ニンゲン種は、最初にインプットしたものを疑いもなくそのまんま受け取るようにプログラミングされているらしい。だからおさないころ、じーさんやばーさんや昔話に出てくる倫理観話に完全にヤラレてしまう。人として正しくあらねばならない!と。

なので、相手に「君、間違っているよ」的な指摘を受けると、即座に反応する。「人として間違ってはいけないのだ!」と信じて疑わないから、まちがっているかもしんないの?あたし。。?という恐怖がにょきにょきと海底から現れてくる。その恐怖をふりきるかのように猛反撃が始まるわけだ。

すると相手も「あんたの方こそまちがってるわい」って言い返されたようなもんだから、そりゃあ、またまた反撃するわな。

こーやって、反撃劇場がパンパカパ~ンと幕が切って落とされるわけだ。
その劇場は、当の役者達がぜーぜーいって、疲れ果てて、そのうち「この恨み100年先まで」といったことになるだけだ。

そろそろそこら辺の心の仕組みを理解して、先に進もう。
ようはその倫理観がいろんな考えのじゃまをしている。


でた〜!親ぢの色気!ふしぎ〜な、ものがたりです。

2013年5月23日木曜日

ほったらかしな心



部屋がぐちゃぐちゃだと、ぐちゃぐちゃがもろみえである。
だからきれいにすることが出来る。
だけど、心ん中がぐちゃぐちゃなのは、目に見えない。
だからきれいにすることがない。

ジャンクフードばっかり食べていると、気持ちが悪くなって、それを食べるのをやめたりするけど、心ん中がいつも同じジャンクフードばかり食って気持ちが悪くなっても、ちょっとテレビみてるあいだに気持ちの悪さが消えると、また同じジャンクフードを食い続ける。

心ん中は、わしら現代人にとって「目に見えない」から、ほとんどが「ほったらかし」なのである。
そのほったらかしの心ん中は、ぐちゃぐちゃなので、行為が支離滅裂になる。

外でマザーテレサな人が、ウチではランボーになる。
「あんた何様のつもり!?」ってな人が、ウチでは宮沢賢治になったりする。

何しろ目に見えないもんだから、メンドーなのである。

だけどゆいいつ、目に見えて明らかなことがある。
それは感情である。
ピキッとくる。イラっとする。びくっとする。がくっとする。むかっとくる。おちこむ。
そんな感情的反応である。
これが心の中が、今どうなっているかを教えてくれるヒントなのだ。

こーゆーのは動物的反応だと思われているけれど、じつはほとんどが言葉によって引き起こされている。自己防衛本能が与える感情的反応なんだけど、その自己防衛とは、生き死にのもっと手前の、自己の尊厳を崩壊させられると思い込んだ瞬間の、自己防衛的反応なのだ。(早い話がプライドが傷つくこと)

だれかと口げんかになって、その後まともに事態が収縮することがあるだろうか。オトナな付き合いは、それぞれの感情を抑えることによって収縮しているように見える。だけどそのあと、尾を引かないだろうか?すっかり終わっていたら、後でウジウジそのことを考えたり、カンケーない他の人にあたってみたりするだろうか。

誰かに意見されれば、必ずと言っていいほど反論したくなる。
人格者は「ああ、君の言う通りだ」と納得するだろうけど、凡人は
「おめえに言われたかあねえよ!」となる。

口では言わないよ。おとなだもん。だけど心ん中はそう言ってる。いや、心にも浮上していないかもしれない。底の底の方にまで沈ませている言葉だ。自分じゃ気がついてないけど、なんだかしらんが無性にハラが立つ。だから反論する。
自己を他人から防衛しているのだ。なぜ?自分の存在が脅かされるとおもったからだ。でも他人は君に意見をしているだけだ。別に殺そうとしているわけじゃない。なのに必死で防衛する。

違う違うそうじゃない!そんなふうに考えているわけじゃない!君の方が間違っている。おれは絶対正しい!
心の中はそう叫んでいる。

反論すると、今度は言い出しっぺの相手の方も反論してくる。もちろん相手も自分の意見にチャチャを入れられてカチンと来たんだ。相手も自己防衛を始める。

こうしてえんえんとお互いの自己防衛反論が続いていく。
内容うんぬんはいつのまにかどっかにいっちゃって、たがいの存在レベルなところにまで発展してしまう。何も解決していない。何も終わらせていない。

そうゆうものが、ぐちゃぐちゃと心の部屋の中にほったらかされてつみ上がっている。
それは解決されたり、消化されたり、気づかされたりして消えていないので、いつまでもそこに残り続けている。

ある日、似たような状態がやってきた時、部屋のすみっこで埋もれて寝てたそのゴミ(?)は、いきなり立ち上がって叫ぶのだ。
「おれは悪くない!」


2013年5月22日水曜日

その先へいこう




昨日ニュースをみてた。

誰からいきなり金属バットで殴られた事件、刺される事件、犯人が逃げる途中で交通事故に巻き込まれた事件、飲酒運転で車を何台も巻き込んだ事件、新幹線の中でスプレーまいた事件。。と、いろんなニュースを見た。
みんなその日一日に起こった出来事だ。

昔は計画的犯行というのが犯行の主流だったような気がするが、最近の事件は突発的と言うか、感情的と言うか、誰でもよかったと言うか、そんなどこか「ぷっつん切れました」的な事件が多い。

心に何かとてつもない不安を抱えた状態が極まって、そうさせてるんではないかとおもえてしまう。
犯人の人柄は、
「とてもそんなことをしそうな人でなかった。やさしい温厚な人柄だった」
なんてコメントされることもふえた。
犯罪者とわしらは、ほとんど境界線のない時代に入ったのだ。

やまんばが生まれてから、今のような精神的な問題が、ここまで浮上してきたことがあっただろうか。ちまたではあまり取りざたされていないけど、老婆心ながら、これからはっきりと意識的に精神的なことを言葉に表していかないと、文明は物質的な問題よりも、ニンゲンの心の問題で文明は続いていかなくなる気がする。

わしらは、ふだん目に見えるモノがこの世のほとんどを占めていると信じている。だから目に見えて明らかなものだけを問題解決していけば何とかなると思っている。目に見えるとは、机とか、パソコンとか、お金とかの、物質的なものだけじゃなくて、政治とか経済とか医療とかも含めてのことだ。目に見えてこの問題、あの問題、と提示することが出来るもののことだ。

だけどその問題を考えて考えて考え尽くして、はや2000年。
文明はコロコロ変わって、いわゆるコンビーニエントにもなった。だけど、はたしてそのコンビニエントは幸福とつながっているのか。その幸福は絶対的な不変な永遠に続く幸福か。こんなに突発的な事件が多い世界が幸福なのだろうか。
では問題のひとつ、原発がなくなれば、私たちは幸福になるのか。
きっとやっとのおもいで原発がなくなっても、また次の問題が見つかるのだろう。そうやってまた次の2000年をすごす。。?はたしてこのままこの文明がずるずると2000年続くと思うだろうか。やまんばにはおもえない。

とんでもないものを忘れている気がする。あの問題この問題と外に指さして変えようとしてきたが、わたしたちは一番大事なところを指さすのを忘れてないだろうか。
ここ(胸のとこ)の問題だ。

すべての行動のはじまりは、ここからきている。なのに「ここ」はちっとも顧みられることがない。なぜならそこが一番怖いところだからだ。だからそこにずーっとふたをしてみないようにしてきた。あっちやこっちがわるいから、あたしは不幸なのよ。と言い続けてきた。その結果が「ぷっつん切れました」になる。

道徳観や倫理観は恐怖をうえつける。
ニンゲンはこうでなければいけない。そうしなければお前はニンゲン失格だ。そういわれてきたんじゃないか?
つまり道徳観は、恐怖の上に成り立たされている。だから「ここ」を見れないのだ。

そんな「恐怖による洗脳」の道徳観や倫理観などもう古いのだ。その古い形を持ったままでは、この先の文明はかなしいものになる。。。


その先へいこう。(なんかどっかのCMみたいだな)