2026年5月20日水曜日

うんこ投げつけ合戦

「庭草長いお皿」

 

喜びに満ち溢れている時があるかと思えば、

打ちひしがれて絶望の心になるときもある。

この極端な心はなんだ?


昨日の夜、恐れで起こされてじーっと座る。

真っ暗な部屋に恐れがあるわけでもない。

ただ心の中だけが恐れなのだ。


喜びに満ちているときもそうだ。

真っ暗な部屋には何の変わりもない。

ただ心だけが動いている。


私は今自我の誘惑に負けている。

「おまえは愚か者だ」

「人はおまえを見捨てる」


自分がやってしまったことに後悔をして恐ろしさの中にいる。

恥ずかしい。

なんてことをしてしまったのだ?

私は間違ってしまった。


これが自我の誘惑。

人はこれに魅了されて、自己否定の中に埋没。

あるいはそれを他人のせいにして他者批判へと埋没。


この世界で生きるとは、自我の誘惑に気がつかないまま、

どちらかが悪いという判断の中で絶えず翻弄される。

いっときは自分が正しいということに安堵するが、次の瞬間逆転する。


うんこが自分の手にあるときは、

相手にぶん投げて安心するが、

次の瞬間うんこはぶん投げ返される。

うんこ投げつけ合戦。


自我とともにいるといつも「うんこ」がある。

しかし聖霊とともにいると「うんこ」などない。


投げつけあうものがないのだ。

むしろ与え合うものだらけになる。

うんこじゃないよ。愛だ。


愛は勝手に広がっていく。

喜びは勝手に広がっていく。


真っ暗闇の山を見ながら、喜びでウキウキする謎のおばさん。

全身から喜びが膨れ上がってくる。

真っ暗な山は愛の表現。

カジカの声は愛の表現。

遠くで聞こえる電車の音も愛の表現。

愛が満ちてくる。


愛は形じゃない。

その形の先にあるものだ。

その形を抱きかかえている何かだ。


私たちは形にとらわれ、その形を判断し、一喜一憂する。

それが自我の目線。


その背後にあるものに心を向ける時、

形のないものに目を向ける時、

聖霊とともにいる。

それは静かで、幸せな時間。



私は絵を描く。器を作る。

形を作っている。

形にとらわれているとも言える。


だんだんわかってきたことは、

その形が重要じゃないってことだ。


その思い。

その思いが形として現れているということだった。


私は山や森や植物を見てそこに神を見る。

そしてその神と出会った思いを絵や器にする。


いただいた愛を、感謝で目に見える形にする。

自分の喜びが外に広がっていく。

おお〜、なんて素敵なんだ〜。


あれ。恐れはどこへ行った?






和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


0 件のコメント: