喜びに満ち溢れている時があるかと思えば、
打ちひしがれて絶望の心になるときもある。
この極端な心はなんだ?
昨日の夜、恐れで起こされてじーっと座る。
真っ暗な部屋に恐れがあるわけでもない。
ただ心の中だけが恐れなのだ。
喜びに満ちているときもそうだ。
真っ暗な部屋には何の変わりもない。
ただ心だけが動いている。
私は今自我の誘惑に負けている。
「おまえは愚か者だ」
「人はおまえを見捨てる」
自分がやってしまったことに後悔をして恐ろしさの中にいる。
恥ずかしい。
なんてことをしてしまったのだ?
私は間違ってしまった。
これが自我の誘惑。
人はこれに魅了されて、自己否定の中に埋没。
あるいはそれを他人のせいにして他者批判へと埋没。
この世界で生きるとは、自我の誘惑に気がつかないまま、
どちらかが悪いという判断の中で絶えず翻弄される。
いっときは自分が正しいということに安堵するが、次の瞬間逆転する。
うんこが自分の手にあるときは、
相手にぶん投げて安心するが、
次の瞬間うんこはぶん投げ返される。
うんこ投げつけ合戦。
自我とともにいるといつも「うんこ」がある。
しかし聖霊とともにいると「うんこ」などない。
投げつけあうものがないのだ。
むしろ与え合うものだらけになる。
うんこじゃないよ。愛だ。
愛は勝手に広がっていく。
喜びは勝手に広がっていく。
真っ暗闇の山を見ながら、喜びでウキウキする謎のおばさん。
全身から喜びが膨れ上がってくる。
真っ暗な山は愛の表現。
カジカの声は愛の表現。
遠くで聞こえる電車の音も愛の表現。
愛が満ちてくる。
愛は形じゃない。
その形の先にあるものだ。
その形を抱きかかえている何かだ。
私たちは形にとらわれ、その形を判断し、一喜一憂する。
それが自我の目線。
その背後にあるものに心を向ける時、
形のないものに目を向ける時、
聖霊とともにいる。
それは静かで、幸せな時間。
私は絵を描く。器を作る。
形を作っている。
形にとらわれているとも言える。
だんだんわかってきたことは、
その形が重要じゃないってことだ。
その思い。
その思いが形として現れているということだった。
私は山や森や植物を見てそこに神を見る。
そしてその神と出会った思いを絵や器にする。
いただいた愛を、感謝で目に見える形にする。
自分の喜びが外に広がっていく。
おお〜、なんて素敵なんだ〜。
あれ。恐れはどこへ行った?



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