2017年6月7日水曜日

できる人じゃなくてもいいや。


できる人にならなきゃ。っておもってた。ずーっと。

なぜできる人になろうとしたか。
それはできることが正しく、できないことがまちがっているっていう世の中のルールがあるから。
それは物心ついた時から、気がついたら、「そうあるべき」の中にいた。
なぜかというと、

1:それができると、ほめられるから。
2:ほめられると、そこにいていいよ、という許可が出るから。

居場所を求める気持ちは、そこにいていいと、自分が決める場所じゃなくて、他人にそこにいていいよ、と言われることによって得られる、
「ああ~、ここにいていいんだ~」
と、安堵する場所のことだ。

人に自分が存在していいのだと許可をもらう。
するってえと、ちょっとややこしいことになる。

できる人はそこにいていい人で、
できない人はそこにいちゃいけない人ってことだ。
こりゃあ、たいへんだ!
そこで人は、必死になって「できる人」になろうとする。

できちゃった人はいいよ。
でもできない人は、ポイされる。(と、思い込む。)

ところが、できちゃった人も、じつはそのとき「いていいよ」といわれるが、(ほんとはそんなふうに言ってないのだが、そーゆーニュアンスにとる)
またたくまに、次のお題をいただき、また挑戦させられるはめになる。

とゆーことは、いつまでたっても、できる人もできない人も、つねに意識的にも無意識的にも、どっぷりと人の評価を気にして生きることになった。

できる人はできる人なりに、人の評価を気にし、
できない人はできないがゆえに(笑)、人の評価を気にする。

どっちもどっちだあ~(苦笑)。




聞いた話し。
ある知恵おくれの学級で、みんなのリーダーを決めることになった。

「誰がリーダーがいいか、みんなで推薦して下さい」というと、
「A君がいい~~~」と、みんな口をそろえていう。
A君は、いつもおしっことうんこを漏らして走る問題児。先生は困ってしまった。そこで先生はリーダーとはこれこれこういう風に、みんなを率先して引っ張って行く人なんだよと説明した。
そしてあらためて聞いた。
「リーダーが誰がいい?」
みんな「だったら、やっぱりAく~~ん!!」

私はこの話しが大好き。
確かにリーダーたるもの、人を導くお手本のような人物じゃないといけないように思える。しかし実際、我が町内会でも似たようなことがあった。
リーダー然としている前会長のとき、みんなの関係がいつもぎくしゃくしていた。その会長も退任され、今度は頼りない新会長に変わったとき、みんなはどうなるかと心配した。しかしそのみんなの心配とは裏腹に、町内会はまあるくなった。頼りない会長を中心に、互いにフォローしあうようになっていたんだ。

A君は、確かにおしっことうんこを漏らすが、いつもまわりに笑いがあった。たよりないA君は、逆にみんなを明るくしていた。みんなはそのことを知っていた。

かれらは、私たち大人が知らないあいだに作りあげて来た狭いルールとは関係なく、何か人間の本質だけををみているのかもしれない。


私ができないことを、できないままでいようと思えた時、心のどこかがふぁっと軽くなったんだ。それは自分のいいもわるいもそっくりそのまんま受けとめることでもある。
すると人の評価なんかどこかにいってしまう。

きっと人の評価なんて、お化けみたいなもんだ。

あるような気がして怖がっているけど、勇気を持ってふりかえってみると、ただの柳の木なのかもね。

絵:「女性の部下の活かし方」MF新書表紙イラスト

2017年6月1日木曜日

ハイ。バデイに入りました。



非二元に関する本を読み、
「なにこれ?意味不明」
と、思いつつもなぜか意味不明に惹かれて読み続ける。

そして非二元のうたい文句、
「わたしはいない」
が、幼かったころの私を、そろーーーっと、じょじょに、思いださせはじめる。

あれはちっちゃいころ、この世がもわもわして見え、自分ももわもわしてて、何だか取りつく島がないように感じていらいらしていた。

なんかちがう。。。
なんかちがう。。。
こうじゃないんだなー。。。
何かに悪戦苦闘していたある日。

そう、あれは突然にきた。

「ハイ。入りました。この身体に」
という感覚になったんだ。

すっぽりと身体に入った感があって、
「あーやっとこれに入れたー」と、安堵した。
ためしに腕を振ってみた。
すっと腕が振れる。
「うふ。腕、振れてるじゃん♥」
足、動かしてみた。
「オーーっ!足、動いてるじゃん♥」

それまでは、腕を動かしている感も、足を動かしている感もなく、ただ、もんわ~~とした、たとえてゆーなら残尿感(?)のようなものをただよわせていた。

おまけに、「つくしちゃん!ちゃんとしなさい!ちゃんと歩きなさい!」
と、親や幼稚園のせんせーにきびしく言われていたものだから、どうもちゃんと歩いてもいなかった様子で。
なもんだから、なんとかこの体に入ろう、入ろうとしていたのだな。

その努力(?)のかいあって、ある日突然にこの体に入った。



あれから50年。(きみまろ風)
おとーさん、おとーさん。
まさか、あたしは、あのもわもわした状態に戻ろう戻ろうとしていただなんて。
ああ、おとーさん。。。。よよよ。


非二元の本、クソ難しくって、何言ってんのか、サーッパリわからないけど、なんか惹かれる。
なんでやねん!「わたしはいない」って、なにいっとんねん!
とかおもいながら、眼を皿のよーにして読みふけること2年間。

ひょ、、、ひょっとして、あのこと?
身体に入る前のこと?
ぎゅっと凝縮して局在化した「バディなわたし」になる前のこと?
拡大した意識がただあるだけだったあのときのこと?

あれから50年。
縮小した「わたし」は、楽しいこともあったが苦悩もあった。
その苦悩から脱出しようと、今度はこのバディから出よう出ようとしている。

しかしいったん入っちゃったものは、そう簡単にはぬけられそーもない。。。
だって、50年も定着しちゃったんだもーん。
だもんだからマインドは、
「う、、う、、でられない、、、」
と、もがいているのであった。

ちゃんちゃん。

(こんなことなら、入らなきゃよかった。)



絵:「縮む世界でどう生き延びるか?」MF新書表紙イラスト


「働かないアリに意義がある」の著者さんです。




2017年5月27日土曜日

キジバトの死


最初はモグラだった。

キュウリの種を蒔いた畝に、ちょこんとモグラの死骸。
あおむけになってて、かわいかった。ちょんちょんと小さなつめのようなお手手を触った。
畑の外にそっと捨てた。

次は、畑に行く途中のけものみちにリスの死骸。
そーっとそばの木の枝で持ち上げて、けものみち脇に置く。その上に土と葉っぱをかぶせた。まだやわらかかったので、死んで間もなかったんだろう。

そして今日。
畑の一角に鳥の羽根が散乱していた。色からしてキジバトだ。ぐるっとまわりを見渡してもその本体は見当たらなかった。

しかしスナップエンドウを収穫している時にそれはあった。
胸のあたりを大きく開いて、中身はほとんど食べられていた。下の方に黄色い腸があった。私はゴム手袋をして、彼(彼女?)をそっともちあげ、用意した紙袋に体を入れた。

眼はやさしく閉じられていた。
当り前なのかもしれないけれど、苦痛な表情はしていなかった。野生動物はいつも、死に顔が美しい。なぜだろう。それは私たち人間のように、自我がないからだろうか。

散らばった羽根もいっしょにかき集めて、畑の外の川っぷちに穴を掘る。死骸をそっと入れて、土をかけた。


最初はモグラの死骸。次はリス。そしてキジバト。だんだん大きくなる。
このペースでいけば、次は父親か母親の死骸を見る?
心はそんなことを考える。

二元の世界は、これがあったら、こうなる。こう言う現象が起こるってことは、きっとこうなる前兆なのだ。。。。などと、いろんな解釈をする自我がいた。

きっとそうではない。
そいうことではなく、これはわたしがスナップエンドウを収穫していることと、まるで同じことなのだと気づく。

私はスナップエンドウを殺して食べている。野生動物が、モグラやリスやハトを食べるのと、なにが違う?全く同じことをしているのだ。

ハトやリスを殺すことは残酷で、スナップエンドウを殺すことは残酷じゃないって誰が決められるのだろう。
しかしどちらも「残酷」ではない。
それは人間が勝手に「解釈」したことだ。


この自然は、私も、野生動物も、生きているものを殺して、生かされる。
そのことを自覚しながら生きる。
その尊さに心を震わせる。

その自覚こそ、だいじなのかもしれない。




絵:オリジナル絵本「あめがくる」より/水彩画


2017年5月21日日曜日

やりたいこと?



もしお金もあって、時間もあって、家もあって、状況も何も問題なかったら、、、、
なんかしたいことある?

って、アホなこと考えた。

。。。。

じーっとね、じーーーーーっと。

。。。。

「な、なんもないーーっ!」

あせるわたし。
マジ?マジ?なんかやりたいことはないのか?わたし!

と、かんがえると、、、

「うんこ出したい」と心がいった。
(トイレの中で考えてたのよ)

うんこ、出た。
「流したい」
流した。
「トイレットペーパーをとりたい」
トイレットペーパーをもった。
「おしりふきたい」
おしりふいた。
「それを流したい」
流した。

おお!
やりたいこと、やっとるではないか!!


言葉にならない素早さで、「やりたいこと」やっとる自分がいた。
手を洗う。
トイレのドアを閉める。
コーヒーを入れる。
パソコンを打つ。
なんだ、なんだ。やりたいこと、あるじゃーん。それもしっかりやっとるじゃーん。



。。。って、ちょとちがう。
なにがちがう?

時間だ。そうだ。時間という距離だ。
やりたいことやれているのは、ものすごーく今目の前にあることだ。今やりたいことだ。それはばっちりやれている。

だけど私たちが一般的に言う「やりたいこと」とは、もちょっと先のこと。
1年後だったり、5年後だったり、10年後だったりのどっちかっちゅーと、計画に近い。
うんこ出したいことを「計画」する人は、便秘で悩む人ぐらいだ。(やまんばものその昔、随分悩んだ)

私たちは、今ここでやれていることには、眼もくれず、もちょっと先のここにないものを求めている。
うんこふくのは当り前。そんなこと目標になんかしない。もっと「目標」たるなにか。お題目として、かっこいいなにか。そんなものを求めているんだなあ~。


やまんばは、絵を描く時おっくうになる。
それは絵を描こうと思った時、その完成品を妄想するからだ。
ああ、あんな風に描けたらなあ。。
あんな風に描けないといけないぞ。
描くからには、完璧に仕上げなければいけない。。。。
と、自分にどんどんプレッシャーをかけてしまうのだ。

もちょっと先のことを考えれば考えるほど、心がぎゅーっときつくなってくる。
だけど、
「えーっと。まず、パネルを机の上に置く。よし。置いたぞ。次。紙を置く。よし。置いたぞ。水張り用の水を用意する。よし。用意したぞ。」
と、ゆーふーに、そのときその時の、ほんのちょっとした行為だけに心を寄せる。

やまんばのおバカな脳みそは、10分先のことを考えるだけで、萎縮してしまう。だからほんの5秒先のことだけを考える。

畑でもそうだ。
「今日の予定は〜。。」
と、考えると、とたんにやる気をなくす。
だから「畑に行ってから考えよーっと」となる。
だからいっぱい忘れ物をする(笑)。


やりたいこと?

今、やってることー。
(注:こんな大人に育ってはいけません)


絵:「春」/樹シリーズ。和紙、水彩、オイルパステル


2017年5月20日土曜日

黒足袋で野良仕事


炎天下、今日もやまんばは野良仕事。

さすがにブヨなどの虫が増えて来たので、裸足で野良仕事はむずかしい。しかし地下足袋はすべて裏がゴムで出来ているので、アーシングは出来ない。なので裏が木綿の正真正銘の黒足袋を買う。
その名も『八咫烏』。名前が気に入った。で、黒足袋で野良仕事。

今日は雑草に埋もれていたいちごを救出。
いたいた。草葉の陰で赤く色づいているかわいい奴ら。しかし裏返すと、しっかりアリンコに食われている。
草刈りした草を色づきはじめたいちごの下に敷く。いちご農園じゃワラを敷くらしい。やまんばはそこらの草で代用。

アリンコが先か、やまんばが先か。
どっちが先に食う?

キュウリの種を蒔いたのが、約一ヶ月前。うんともすんともでてこない。暑い日があったり、寒い日があったり。その間、水もあげず、からっからに乾いた大地のまんま。
そろそろ新たに蒔き直すか?
ん?でもまてよ。もうちょっと。。。
と言ってるあいだに、ふと見ると、出てきたではないか!
でかした!キュウリ!
あの激しい環境の中、よくぞ芽を出してくれた!



さすがこのスパルタの環境の中、耐えに耐えて、この場所で何年も実をつけてくれたキュウリさん「上高地」!
あんたはえらいっ!



2017年5月19日金曜日

草を刈る


最近、のこぎりグワを新調。よく切れる。
ぼーぼーに生えた草を刈る。ごめんよー。ごめんねーっていいながら。

けっこう広い畑に、今年も元気に草が生える。
あまりの多さに、
「そろそろ草刈り機買うかなあ。。。」
と思ってた矢先だった。

ある日、草刈り機で草を刈られた所に遭遇。
そのときの草たちの無惨な切られ方にショックを受ける。
切り口が、ギザギザで、見るからに無惨。。。

それを見たとき、草刈り機を買うのを断念した。(きついんだけど。。。)

なんかね。
きっと草刈り機で草を刈った人は、その刈った草に対して、何もおもわないんだろうなーっておもった。

だけどやまんばは、這いつくばって草を刈る。
左手で草をにぎって、右手の鎌でざくっと切る。そのときの、なんとも言えない草への想い。ごめんね。あなたを殺しちゃって。。。という痛々しい気持ち。
この想いを大事にしようとおもった。


そうしてやまんばは、今日も草を刈る。
あなたたちのおかげで、美味しい野菜をもらってます。
ありがとう。

2017年5月12日金曜日

あたまの中の店員さんがうるさい


朝早く目が覚め過ぎて、仕事に出かける40分も前に準備が終ってしまった。(これを老人化現象とゆうのか?w)

しかたがないので時間つぶしに瞑想などとゆーものをしてみる。寝てしまうといけないので、タイマーを横に置く。

瞑想といっても、何も考えないとか呼吸法をするとか言うものではなく、ただ直接聞こえてくる音、鳥の声、車の音、犬の鳴き声、電車の音、冷蔵庫の音などを聴く。
ソファに接している太もも、あぐらを組んだ足の上にかかっている毛布。そのくすぐったい感触、そのすべてを感じる。
頭に浮かぶ思考の音にもただ気がつく。
それにともなっておこる感情もそのままに感じる。
今この時に、自分の中で、外で、起こっているすべてのものに、意識を注ぐ。


思考ってすごい。
あることがふと思い浮かび、それに乗らずに見ていると、別の思考が浮かぶ。それも流し見していると、全く別の思考が浮かんでくる。そうやって次から次へ浮かんでくる。

まるで、お店の店員さんが、
「これ。どお?ダメ?じゃ、こっちは?これも気に入らない?じゃじゃ、これなんかどお!?あなたの興味にピッタリよ!」
などと、わたしの目の前に、興味をそそるであろう思考の数々を提供してくるのだ。
とはいっても、いつも自分の頭に浮かんでくるお話だけどね。

これはまるで馴染みの店の店員さんが、私の好みを熟知しているように、
つくし玩具店の店員さんは、私がいつも乗っかってくる話(おもちゃ)をいっぱい知っているのだ。

だが今朝はあえて、乗っかってあげなかった。

ピピピピ。ピピピピ。

タイマーの音で目が覚めた。
気がつけば、おもいっくそ前のめりになって寝てた(笑)。




絵:「心が折れない部下」の育て方/MF新書表紙イラスト