2014年2月9日日曜日

高級居酒屋のパクリ



東京じゃ45年ぶりの大雪だったんだそうな。

我が高尾も降ったぞえ。
ベランダの積雪、53センチ。
きたあーっ!
ベランダに分厚い羽毛布団が乗っかってるかと思った。洗濯どないするんじゃ?

どんどん降り積もる雪にワクワクしちゃった。
だけど、なんとその前日にぎっくり腰やっちゃって、大好きな雪かきができな~い。(ウソつけ)

リハビリかねてまわりを歩いてみると、ウチのまわりは除雪車なんか来てないから、道路に軽く50センチの積雪が広がっている。車なんか出せやしない。
いつもは静かな通りにご近所さん全員が出動していた。雪かきで大変そうだけど、みんななんだかうれしそうだったな。子供みたいにはしゃぎたいねえっていってた。

「いやあ、すんごい雪降っちゃったねえ」
独身貴族のオヤジが言う。
「でね。あんまりキレイなもんだから、さっき雪食ってみたのさ。ジュースに入れてね。うまかったなあ」
「そりゃあ、優雅でいーですねえ」とやまんば。
「だけどこんな雪じゃ、買い出しにも行けない。冷蔵庫空っぽだよ」
「じゃあ、雪で煮物でもしたらどーですか?」
と、ボケをかましたら、ウケてくれた。

畑までムリヤリでかけた。途中、道に吹きだまりができてて、腰まで雪に埋もれた。リハビリどころの騒ぎじゃない。やっとのことでたどり着いたら、畑の入り口のドアが開かない。雪に埋もれていた。(あたりまえじゃ)しゃーないので、遠くから畑の野菜さんたちにご挨拶した。



話は変わって、先日友だちが高知から出張でこっちにきてて、誘われて品川の高級居酒屋に行った。
そこのメニューがうまくって作れそーだったんでメモってみる。

これはチャンジャのクラッカー。お店ではお麩をかりっと焼いたものだったけど、クラッカーでいけるはず。チャンジャの強烈さがクリームチーズのまろやかさでちょうどいいバランスになっていた。

わしならチャンジャの代わりに、高知の酒盗を乗っけるな。
いけると思わない?

お次は、オイルサーディンの南高梅のせ。
そっかあ、なるほどね。
だって鰮と梅干しって、煮物に使うじゃん。相性いいはずだよな。
その下に水菜を敷いておけば、あっさりと濃厚がちょうどいいハーモニーになる。これもモーライッと。

やまんばは高尾の山の中でばっかりくすぶってるけど、たまにはお街でこーゆー刺激もいいね。

あ、それから、おきにいりのゆずダイコン。あの、おつゆの使い道を発見した。
畑にあるスが入って使い物にならないと思ってたダイコン。いちょう切りにして、このゆずダイコンで出たおつゆに、醤油をテキトーに混ぜて、つけ込むといい感じになった。ちょっと重しをしておくといいかも。
三日ほどでい〜感じの新たなお漬け物ができる。




2014年2月7日金曜日

アナスタシアの子育て



彼女はシベリアのタイガの森の奥で、ひとりで男の子を産み育てていた。

その子育てがすごい。
男の子は雌クマの脇の下ですやすや眠り、起きて草原におりるとうんちをする。そのうんちがついたおしりを、雌グマがなめてあげる。彼女の仕事はそこまで。今度はオオカミがやってきて、昼間の世話をする。はいはいをしながらオオカミのところへ行き、口の中に手を突っ込んで、牙を触ってもオオカミはされるがまま。
さっきクマの目玉が気になって触りにいったときも、雌グマはいやがらず、さっとまぶたを閉じるだけ。あくまでも彼の行為に任せている。

アナスタシアははいはいをしながら途中で彼が虫を触っても、花を触って花粉をなめてもやめさせない。彼がやりたいようにさせている。彼がその中でこれはまずいもの、これは安全なもの、と自然に学んでいくに任せている。そして彼がおっぱいを飲みたくなって来たい時に来させる。けしてはいはいの途中で抱き上げて、おっぱいを飲ませたりしない。
彼という一人の独立した人間として尊重して育てている。彼は草原ではいはいする中で自然を学び、花を眺めて宇宙を知る。そこに人間の親の介在する場所はないかのごとくに。


これは現代社会を生きるニンゲンにとってびっくりしないか。
だって、子育てはことごとく子供の行動を管理しようとする。
草の上をはいはいしたらばい菌がつくとするし、虫なんか触ろうもんなら、おおさわぎする。好きな時にだっこして、親の都合でおっぱいをのませる。ましてやクマの脇の下でおねんねさせようとする親なんかどこにもいない(笑)。

彼女は子供をまるで神のようにみつめる。あそこに神様がいるわ。と。
すべてを知っている神がいる、と。

やまんばがまだはいはいしていた頃、あるとき真っ黒く大きなヒモのようなものを触っているのに母親が気づいた。よくみると、大きなアオダイショウの頭をなでていたのだそうだ。母親はびっくりして私を持ち上げたそうな。

そのときやまんばは何を見ていたのだろう。そのアオダイショウと何を話していたんだろう。そこに宇宙が広がっていたに違いない。

アナスタシアの子育ては私に何かを確信させる。
私たちが自分の行為にいちいち否定的になるのは、ここじゃないか?

触ろうとすると、とめられる。行こうとすると、行く手を阻まれ、欲しくないおっぱいをもらい、寝たくもないのにムリヤリ寝させられる。

これはどういうことになるのか。
好きにやろうとすれば、ダメダメといわれるということは、好きにやってはいけないとおもいこむんじゃないだろうか。
つまり、何をやるにも誰かのオッケーをもらわないとできない。なにかやるにも、誰かの顔色を見て、その誰かが「いいわよ。そうしても」と言われないといけないとおもいこんでしまうのだ。

もちろん、今の子育てが悪いとか、じゃあ、クマの脇腹で育てろというのかってなはなしじゃないんだ。
もっと自分自身に引き寄せて考えることなんだ。

人の目を気にして、人の判断に委ねて生きている私たち。それは生まれてきた最初のころ、やろうとすることをとめられたところにあるかもしれないっておもうんだな。
しかももっと重要な影響がある。
私は親のゆう通りしないと生きていけない、小さな存在なのだともおもいこんでしまう。小さくって力のない、誰かの言うことを聞いて生きていかなきゃいけない存在なんだって、信じ込んでしまうのだ。
なんてえこったい。

じゃあ、親に文句を言え!ってな話になっちゃうと、親も困るんだな。
親だってそうやって教わってきたんだもん。

たぶんね、私らは、その最初の、『絶対的自分への否定』を受け入れて、それを乗り越えると決めて生まれてきた存在なんだ。
アナスタシアの息子よりも、もんのすごーーーーい高いハードルを自分に課して生まれてきた、いわばエリートなんだよ。だってそーでしょ、最初っから自分を否定せよと教えられてきたんだ。そこから自分を肯定することを学んでいくのって、すごい力を産み出せることじゃない?ゴムはすごくひっぱられると、おもいっくそ反対方向に飛んでいくじゃない。それそれ。

やまんばが今夢中になってることは、自分を肯定することなんだ。
ばかばかしい?
ところがどっこい、これがものすごく奥が深い。
「ああ、それって自己肯定感があればいいんじゃないの?」
とかそんな次元じゃない。

自分をありのまま受け入れるとは、宇宙を知ることにも繋がるんじゃないかとおもっている。


2014年2月4日火曜日

確率ってなんだ?



数字が一人歩きしている気がする。

30年間に東京に地震が来る確率が60%とか、あなたが認知症にかかる確率は37%だとか。。。。
この数字をいったいどのよーにしてとらえればいーんだ?

びみょ~じゃね?

60%だからそなえればいーのか、37%だからるんるん気分でいていーのか、はたまたぜつぼーてきになったほーがいーのか。。。

なんか確率ってさあ、だまされてる感がね?

ことがおこったら、
「ホーラ、言った通りでしょう!」
と威張られそーだし、ことがおこらなかったら、
「ホーラ、言った通りでしょう!」
と威張られそーだし。
どっちに転んだっていかようにも解釈できるし。
けっきょく言ったモノ勝ちってかんじじゃね?

だけどうぶな庶民はそのお偉いさんが言った確率的数値を聞いて、右往左往させられてる。

やばい!60%もある!
やばい!37%もある!って。

たとえ、それが99%って言われたって、そうならなかったら、
「ホーラ、あなたラッキーでしたねえ、1%の確率に入ってました!」
と言われるのがオチじゃねえか。なんかバカバカしいなあ。

数値って人をふりまわす。
けど結局、なったらなったときのことだし、ならなかったらならなかっただけのことだ。

その前に右往左往するほーがよっぽど、エネルギー使うし、イヤな方に引っ張られるし、疲れ果てる感じがする。

情報ってあればあるほどいいみたいだけど、ときには必要以上に人を混乱させることにもなるね。


2014年2月2日日曜日

うんちくじじいとジャガイモ



ルッコラの花芽が出た。やまんばの畑にも春が来ている。
畑の近くで梅の花の匂いをかいだ。一本の梅の木だけ花が一割咲いていた。
鼻水が出ろ~ンと出る。
来てます。
やまんばのカラダにも春が来てます。

は~るがき~たあ、は~るがき~たあ、ど、こ、に、きたあ~。
う~めにき~たあ、畑にき~たあ~、鼻にも~、きたあ~。
ハックション!

あるがまま、あるがまま。変化を楽しむ。
(と、自分にいいきかせている)

きのうジャガイモを植えた。早過ぎ?でもいーんだ。なんかダイジョブそう。だって、土の上に転がっているジャガイモは寒さのせいで半分溶けそうになっているけど、土の中のはぷちぷちと元気なんだもん。

秋口に収穫しようと掘り起こしたジャガイモはみすぼらしーぐらいちっこかったんで、そのままほっといたんだ。こないだ掘り起こしてみるとおっきくなっているじゃないか!土の上にある茎はしおれてしわしわなのに、土の中のジャガイモは大きく育っていたのだ。
はやく教えてよ~、そんなラクチンなこと。
ンで、それは種芋にする。

今回はちょっとちがうことをやってみる。
いつも浅めに植えてたんだが、スコップでちっちゃい穴をほって、深めに入れる。そんでもってその上に畝のわきの土をとってかぶせて畝を高くし、その上に枯れ草を山盛りのっける。おわり。

土がむき出しになっている畝の中のジャガイモと、枯れ草に覆われている畝の中のジャガイモが、大きさがちがうことがわかった。枯れ草の下の土は空気が入ってホクホクしている。そこのヤツは大きい。反対に土がむき出しのところの畝の土は堅いし、ジャガイモもあまりおおきくなってない。

枯れ草が何かヒントをくれる。
土と草の間で菌が繁殖するのか、生き物が活躍するのか、それとも温度が変わるのか、何かの要素で土の中に空気がほんわか入っている。その中でジャガイモさんは大きくなっているみたいだ。
やっぱりキホンは空気と温度と少しの水、ってかんじかな?

深く入れると、寒さにやられない。だがそんなに深く埋めて芽が出るのかな?っておもう。だけどきのう近所のうんちくじじいに聞いた。
「浅めに植えるとよお、早くに芽が出ちまうだろ。すると遅霜にやられちまうんだよ。だけど、深く植えときゃ芽が出るのが遅いから、霜にゃあやられねえ。」
やまんばは去年の春、遅霜にやられたジャガイモを思い出した。そうだ、浅く植えたんだ。
しかもジャガイモは、種芋の上にできる。浅いとすぐ土の上に出ちゃうから芋ができない。だから土寄せをするんだ。するってえと、最初っから深めに植えときゃ、土寄せしなくていいじゃん。

やまんばみたいに草ハヤカし放題の畑は「土寄せ」がたいへんなのじゃ。かんじんの「土」がちっとも表に出てないから、草抜いて掘り起こしてとらにゃならんから、そりゃーもー、めんどくさい。だったら最初っから深く植えるダよ。

ほんで、もう一つ、うんちくじじいのコツをおしえてもらった。
「芽がある方を下に向けるんだよ。半分に切ったジャガイモを下に向けるんだよ。そーすりゃあ、そのぶんだけ茎が長くなるだろ。」
「あっ」
「そーよ、いっぱいできるわけさあ」
「なあ~るほど!」

捕らぬタヌキの皮算用に舌なめずりするやまんばであった。

2014年1月28日火曜日

春仕様のカラダ


 
この寒空の中、庭の梅がつぼみを膨らませはじめている。

きのうあたりから、やまんばのカラダの様子が変わってきた。
左側の歯、全体が痛い。
この際、テイコーせずに、痛さを感じてみる。

ぐ~っ、ぽそぽそ。じ~ん、きりきり。。。
うん、来た来た。上の方から下に移動する。するとまた上の奥の方に痛みが移る。そーやって痛みが移動するのがわかる。おお~、おもしろいぜえ。ワクワクしながら感じていると、いつのまにかうとうとする。はっと気がつくと消えている。

鼻水が出始めた。おとついまで全然出てなかったのに。

今朝は異様に寒い。外気温を見ると、マイナス4度。もっと温度が低い朝もあったのに、今日はなぜか体全体が寒い。皮膚のまわりに冷気を感じる。鼻をかむと鼻水がいっぱい出た。

はは~ん。春が来てる。
やまんばのカラダが春仕様に変わろうとしている。

それまで冬仕様のカラダだった。カラダから熱を逃がさないようにカチッと固めていたのだ。それが春を向かえるにあたり、カラダに次の季節へのスイッチが入ったようだ。春は緩む。やまんばのカラダも緩みはじめている。毛穴の一つ一つがひらきはじめているのだ。そこに冷気が入り、寒さも普段以上に感じるんじゃないだろうか。
きっと鼻水もそれにあわせて出して、わしらのしらんところで調整をしているに違いない。

やまんばの長かった花粉症及びアレルギー生活の中でわかってきたことは、テイコーがすべてを不幸にするってことだな。


『あるがまま』ってすごい言葉だ。
あるがままってさあ、あっちはあるがままでいくけど、こっちはあるがままにしないって、区別することじゃないようだ。
ほんとに、あ、る、が、ま、ま、でいることのよーだ。

やまんばはそれまで、春になると、ひえ~、眼がかゆい!喉がかゆい!鼻水が出る~!鼻水が出ない!息ができない!死ぬううううう~っ!って、大騒ぎしてた。石けんなし生活のおかげで、喉がかゆくなることはなくなった。しかし眼がかゆいのと、鼻水や濃厚な鼻汁が出ることのくるしさはかなり改善されたが、すべてではなかった。

こっから先は、もう物質で「ナントカ」しようとする次元ではない。
あ、今眼がかゆくなった。今ここにないにもかかわらず、いやだったことを思い出している!これは梅干しと聞くと、ツバが出るのと同じ原理だ。



意識の次元である。
起こったことにテイコーする。これが症状を大きくする。

じつは「症状」という言葉によって、症状=悪だというニュアンスを含んでいる。
じじつは、その「悪」にテイコーすることによって、それを実際以上に大きく感じているということだ。
それによって、量子力学でいけば、カラダもそれにあわせて大きく現象化する。

1;変化がおこり、
2:その変化を「悪」と受け止める。
3:そしてそれにテイコーし、
4:取り除こうとする。
5:意識がそれを大きく見せ、
6:現象化する。

こーゆーことが、やまんばのカラダに起こっていたのだ。

では、あ、る、が、ま、ま、でいくと、

1:変化がおこり、
2:その変化を「春仕様ねえ~」と受け止める。
3:そのまま「春仕様」のカラダに移行する。
以上!

どおよ。

2014年1月26日日曜日

河童のクウがいーな〜



きのうアニメの「河童のクウと夏休み」を見た。
カンドーしちゃったなあ。河童のクウがめっちゃかわいかった。キャラクターのかわいさと動きのかわいさがあいまって、ホントにいるみたいだ。
以前図書館で借りた本が、「こりゃ、めちゃくちゃおもろいわ~」って感動してたものが原作だった。知らなかった。

やまんばは、河童や天狗やぬらりひょんや座敷童やあかなめや、わけの分らん生き物が大好き。どーやって生きてるんか、何してるんか、何考えてるんか、さっぱりわからんものが大好きや。
そんなこと言ったら、植物も昆虫も動物も、何考えてるんかさっぱりわからん。そこが大好きや。

わしがここ高尾が気に入ってるのは、その、わけの分らん世界が生で広がってて、まるで日本昔話の舞台そのものだからだ。道ばたのお地蔵さんの後ろからひょっこり河童が顔のぞかせそうだし、うっそうとした樹々の枝に天狗が乗っかって、こっちを見ているみたいだし、その絵本の世界の中にそのまますっぽりと入って、やまんばまでがそこの主人公のように思えてくるからだ。

そーいえば、わしがずーーーっと心の中でだいじにしている舞台は、幼稚園から小学3年までいた高知の小さな村だった。そこを起点として、いろんな妄想が広がっている。時々出かけていって、その空気をひそかに味わって帰る。そこはやっぱり物語の舞台のよう。

人間ってさあ、もうだいたいのことは「知って」しまったかに思っている。だけど、なんだかちがうよーに思えるんだな。ホントはちっとも知らなくて、むしろ人間より劣っていると信じられている木や動物や昆虫や妖怪のほうが、人間が知らない、まったく見てない、ヘチの方ばっかり見てしまって気がつかない部分を、がっちり、しっかり、知ってんじゃないだろうかって。

河童のクウは、時々へんなことを言う。
「これはとーちゃんの腕だ!」
「なんでわかるんだい?」と人間。
「だって、わかるんだからしょうがねえよう!」

「この手紙を書いたのは人間じゃねえ」
「え~、なんでわかるのよ。ただのイタズラかもしれないじゃない」と人間。
「みればわかるんだ。そうしたほうがいいってこともな」

人間は理屈で考える。これはこうだから、こう。それにはこーいう前例があって、「科学」でこーゆーふうに「証明」されてて、、、というふうに。
だがその「お科学さま」だって「あんれれれ?なんかちがってるう?」ってことが日々更新されてんじゃねえか。そのお科学さまを信仰しすぎて、世の中こーなっちゃった。

クウは心の中がしずかだ。人間は心の中がさわがしい。

科学ではこうなる、理屈ではこうなる、ああじゃない、こうじゃない。そうやって心の中で考えて考えて考えて。
たぶんクウは、考えてわかったんじゃない。
ただ「わかった」んだ。
そこには理屈も科学もない。
人間の直感は、どんなコンピューターよりも速いと聞く。そんな時左の脳を使っている暇はない。どっか知らないところから、ふいにおりて来るのだ。ふいに「わかる」のだ。
それは心を静かにしていないと聞けない「声」なのだ。

今の時代、徹底的に「頭で考えろ」と畳み掛けてくる。そっちに向かえば、ほとんど自滅に向かう。それは直感で「わかる」。

河童のクウは、なぜか迷いがない。じっと考えて、臨機応変に対応する。
彼は何か大きなものをつねにつかんでいて、それとともにあるように見える。

自我というか、思考というか、左の脳で考えることと共にいるかぎり、答えは出せない気がする。それは生まれてから教えられたことだけだからだ。考えないと不安になるから考えてなんとかしようとする。けれども、そこから導き出されるものは、混乱しかないようにおもえる。

とーちゃんの腕をおおさわぎして科学でDNA検査したところで、
「ああ、それはクウのとーちゃんの腕だ」とわかるだけだ。
だけどクウの心の中は、もっとたくさんのとーちゃんとの豊かさであふれている。それがとーちゃんの腕だったというちっぽけな現実を証明することだけじゃないのだ。

やまんばもクウのように心静かに、なにか大きなものをつかんで、いつもそれとともにいよう。


絵:「孫カッパ」やまんばが描くカッパだぜえ〜。スマホケースになってるよ。


2014年1月24日金曜日

モーニングノートは、なんだかが、なんだかなのだ。




キホン、いーかげんな、三日ボーズのやまんばが、フカクにもなんだかまじめに書いちゃってんのが、モーニングノート。
今日もこいつのおかげで助けられちゃったもんね。

スンゲーことに気がついちゃった。
個人的なこと書いていーのかな?チョー個人的なことだぞ(いつも書いてるじゃねえか)。いいのかな。。。
まっ、人様にすりゃ、なんてえことないわな。「へ?それだけ?」てなことだな。
じゃあ書く意味ないか。
 
。。。

とまあ、そんなわけで、モーニングノートはすごいわけよ。
(なんじゃそりゃー!)


不快なことって、突破口なのさ。そこにすごい秘密がある。

人が人生を幸不幸で判断するのは、そこに感情がともなうからだ。人は感情をとおして人生を体験する。人生は感情体験だ。しかしいや〜な感情をウハウハ喜んで受け入れるやつは、悟ったヤツか、ヘンタイぐらいなもんだ。凡人は不快がいやだ。だけどその不快は、チョー個人的なとてつもない秘密を隠し持っている。ここはパンドラの箱。その向こうに何かの突破口がある。

不快は自分を制限させるような、閉じ込めるような、がっちりと閉じられたドアとか、重たいフタみたいなもんだ。人はその中でもがき苦しんでいる。

モーニングノートは、その不快を不快として自分で受け止める作業をうながす。書くことによって、それを外に誘い出してくれる。
モーニングノートは、その重たいドアを、銭湯ののれんみたいに、やすやすとくぐれるものに変えていくのだ。

するとなんだか、どーゆーふーに作用するのかさっぱりわからんが、ぱたぱたと次の言葉が生まれでたり、頭に「あん?」と何かがふって沸いたり、なんだかが、なんだかなんである。

こりゃ、人に相談するよりも数倍、いや数百倍てっとりばやい。
しかも個人的な心の問題なんて、人にそう簡単に説明できるもんじゃない。あれがこーなって、それがあーなって、っていってるあいだに、
「あーもうわかんなくなっちゃった。あたしが言ってる意味わかった?」
「へ?さっぱり。」
と返って来るのがオチじゃねえか。

答えは自分の中にある、なんて名言があるけど、そのまんまやないか!
内側のもんは、内側がよーく知ってるわけだ。それをわざわざ人に伝えるために日本語とゆー翻訳機にかける必要もない。感情的に走り書きしている中で、なんだかがなんだかに変換されていくんだな。
なんだかちっともわからん説明だな。

どーも心の中はなんだかがなんだかなのだ。


絵:「エルザ」表紙イラスト/「ギリシャの部屋」