2013年7月16日火曜日

わけありの行動



ニンゲンの行動の動機は、
「なんだかしらんが、ただやりたい!」
という、わけもなく起こる衝動と、
「やらなければいけないから、やる」
という、わけありの行動がある。

フォレストガンプはひたすら走った。走りながらレポーターに聞かれる。
「どうして走っているのですか?」
「走りたいから」

このわけもなくやりたい衝動は、子供の頃あった。
だけど、大きくなるにつれて、わけもなくやる行動が、わけありの行動に変わっていく。

わけありの行動がはじまるのは、自分以外の存在がきっかけを作る。

ただ何か描きたくて、ぐるぐると木の棒で地面に線を描く。
するとおかあさんにほめられる。
「あら、上手にかけたわねえ」
えっ?
心がなんだかわくっとする。お母さんがほめてくれた。
このよろこびは、また次のよろこびをほしがる。
ほめてもらおうと、意図的にお日様を描いてみたりする。
「アーラ。それお日様ね。じょうずねえ」
おおおっ!
すげーじゃないか。もっと描こう。

この時点で、すでにただ描きたいという衝動は消えて、わけありの行動に変わっている。
「ほめてもらうため」に描くというわけだ。

すると絵を描く目的が、「ただ描きたいから」ではなく、母親にほめてもらうために描く、というものに変わっている。だから描けば母にほめてもらわなくては困るのである。

ところがそういう時に限って、知らん顔されたり、
「ここ、おかしい。もっとこういう風に描き直しなさい」
とか言われちゃったりする。

すると描くことによって得られたよろこびは、苦痛へと変わる。
だからあせってもっと描く。
ほめられてうれしいというおもいは、ほめられなければかなしいというおもいも同時に生み出している。

「ほめられて育つタイプ」は、なかなか言い得て妙なことばだった。
しかしこれは、もう一つ別の面ができる。
「ほめられて育つタイプ」は、つねにほめられようとする。
だが他人はそうしょっちゅうほめてはくれない。ほめられないとおもしろくない。
だからそのうちすねる。


わけありの行動は、人にほめられたいというモチベーションによって動いている。
だからどこかで誰かが見てくれていないといけないのである。



2013年7月13日土曜日

私たちはいつも答えを求めている



私たちはいつも答えを求めている。

小学生だった頃、算数が好きだった。
1+1=2。
明快だった。
答えは一つしかなかった。
方程式も好きだった。
答えはいつも一つしかなかった。

だが。。
大人になって、1+1=2、ではなくなった。
数学は、もっと奥に進むと、2でもあれば、3でもあるし、5でもあるし、100でもある、というふうになった。
。。。。不安になった。

そういえば、私は国語がきらいだった。なぜかというと、答えが曖昧だからである。(ウソつけー。漢字が読めないからだろー)感想文なんか、もっときらいであった。
こういう考えもあれば、はたまたこういう捉え方もできる、というふうに、答えが一つじゃなかったからだ。


こうなれば、こうなる。
というふうに、わたしたちはとらえがちである。
それは算数で明確だったものが、奥に進めば進むほど、複雑で曖昧で、答えなどない、的なところにいっちゃうのが、心もとなくなるからではないだろうか。

子供の頃、おかあさんに、
「これはこうするのよ」といわれれば、
「はいっ、おかあたん!」
ってそのようにやれば、
「まあ、よくできたわねえ」
と、ほめてもらえた。
そのころ、答えは一つしかなかった。
お母さんからもらう方程式である。

だが。。。
ちょっとオトナになり始めると、
「これは、こうもできるぞ」
と、近所のオヤジにへんなことをすり込まれる。
えっ?おかあさんはちがうこといってたのに。。。

すると不安になる。
これはこうもするものだし、そして、これは、べつなこともすることができる。。。
答えが一つじゃなくなった。。。


もっと大人になって、石けんはいらない、と知った。
それまで、おかあさんに、
「毎日きれいきれいに石けんでカラダを洗うのよ。歯磨きは歯磨き粉できちんと。そしてシャンプーは絶対必要よ」
「はいっ、おかあたん!」
「まあ、いい子ねえ」
と、方程式をもらったはずだった。
だけど、石けん。。。。い、いらなかった。。。。

そして、野菜に肥料もいらない、と知った。

では、答えは一つなのか。
石けんいらないという答えと、肥料はいらないという答え。

はたしてそれは「答え」なのか。
そもそも「答え」などこの世にあるのか。
ある、っておもってるからくるしいのではないか。

あの頃、おかあたんと私、というシンプルな世界に、答えは一つしかなかった。言われた通りにやれば、全てオッケーだったあの頃。。。

人はどこかでつねに答えをもとめている。
もとめてもとめて、ほいでもって、やっと手に入れたその新たな答えに
「え~~~~。。。」って戸惑って、
ほいでもってまた次なる答えを探し求める。

私の生き方がおかしい。。。とおもえば、人は答えを求めて外へ探し求める。
ここのセミナー、あそこのセミナー、
ここの宗派、あそこの宗派、
ここの会社、あそこの会社、
ここの先生、あそこの先生。。。。
あげくにここの病院、あそこの病院。。。

答え、あった?
それは「とりあえず」の答えじゃなかった?
でももとめているものは、「ぜったい」の答えじゃなかった?


答えがあったのは、幼い頃だけだった。。。
それは、その答えを通してこの世のルールを知る、という一つの段階であったのだ。
だからこれは一生ついて回る「正しい答え」ではないわけだ。
だけどあのクリアだった、シンプルだったあの感覚が忘れられないから、人は答えを探し続ける。

だけど母に言われたことばや先生に言われたことばは、成長すればいつでもひっくり返せるし、もはやそれにとらわれることもないのだ。

答えは一つではなく、そして、答えそのものもない。。。


やまんばは今日も畑で土をほじくる。
夜露に濡れた草は、土の中の水分を外に出しているのか、それとも、夜のあいだに空気中に存在している水をとらえて根に運んでいるのか。
答えはあるのか。
わからない。
ニンゲンのおよびもつかないところで、植物達はひたひたと生きている。
その姿を見るたびに、ただ畏怖の念にかられる。

ニンゲンはそこに「答え」をみいだす。
だけど植物は、そこに「答え」という概念はない。ただそこに気高く存在するのだ。



2013年7月12日金曜日

ウチの扇風機は誰のもの?



あつい。なんだかすごーくあつい。
冷房をつけない主義のやまんばは、39℃の部屋の中でしごとをする。

するってえと、マックちゃんが、触れないぐらいに熱くなっている。
ひえ~~~、やばい。

最近のコンピーターの熱処理はどうなってんだろう。昔、クワドラの中で回っていたファンの音が、今の機械はしない。熱くなるのは、熱くなるに任せているんだろうか。だけど昔コンピューターが自分であつくなった熱にやられて、変な動きをし始めたのを思い出し、あわてて扇風機をまわす。
じぶんに、ではなく、こんぴーたーくんにかけるのだ。

しかしなんだよな。変な話だよな。
自分で熱だして、自分のその熱にヤラレるってえのは、いかがなもんか。

ダンナにその事を言うと、
「そりゃ、スカンクが自分のへにやられるようなもんだ」
おお、うまいこというじゃねえか。
やまんばは昔、カメムシが密封された容器の中で、自分の発した匂いにヤラレて気絶してたのを思い出した。

カメムシもスカンクも気絶するだけでまた生き返る。

午後、いったんマックを閉じて畑に向かう。
部屋の中でひとり扇風機がマックを冷やし続ける。



2013年7月5日金曜日

ちゃんとしなきゃ



やまんばは、きのうしつけとお仕置きの意味をごっちゃにしていた。
この二つは根本的な意味が違った。

お仕置きは肉体的に、精神的に、苦痛を味わわせることが目的だ。

しかししつけとは、ルールに従うための理解をさせることだ。
それには苦痛が絶対的に必要、とはかぎらない。


私は子供の頃、くすりを飲むのがイヤだった。
拒絶する子供にお仕置きをしてくすりを飲ませるという方法もあるだろう。だけどじっさい、その手は使われなかった。

「ほら、今あなたのからだの中に、悪い菌がいるの。このおくすりの中には、それをやっつけてくれる人がいるのよ。」
子供心にそのイメージがすぐわいて、イヤだけど飲んだ私がいた。それから後は、やっぱりイヤだけど、悪い菌をやっつけてくれるイメージとともに、くすりは飲めた。

肉体的や精神的な苦痛は、その後の心に影響を及ぼす。
苦痛はほとんどの人がそれに恐怖をかんじる。その恐怖を二度と味わいたくないために、しない。
それは「恐怖によるコントロール」ではないか?

私たちはこの世のルールに従うために、外からの恐怖によるコントロールと、そして自らも、自分を恐怖に陥れながら、自分自身をコントロールして生きている。

「ちゃんとしなきゃ病」もそれが基盤になっている。
わたしもさんざんこの病におかされた。
なんでもかんでも「ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ」って、ほとんど無意識にこのことばを呪文のように唱えて生きていた。

そのことばの後ろには、
ちゃんとしなきゃ、ろくな人生にならない。
ちゃんとしなきゃ、ひどいことになる。
ちゃんとしなきゃ、人にきらわれる。
ちゃんとしなきゃ、村八分になる。
ちゃんとしなきゃ、認めてもらえない。
という恐怖が宿っている。

それは幼い頃「ちゃんとせんかあ~っ!」
という言葉をもらっていたからのようだ。
その度に、からだがびくっとこわばる。
あわてて何かしようとする。だけど心が恐怖で一杯だから、なにをしているのかわからなくなる。するとまた「なにやってんだあ~っ!」とおこられるのだ。

だから大人になっても、ぼーっとしていると、急に、
「いかん。なんかせんといかん!」
とあせりだすのは、パブロフのイヌのようなその条件づけのおかげなのだ。

つまり、あのときの恐怖を味わいたくないために人は動くのだ。

行動の動機が、何かを「やりたい」ために動くのではなく、「おこられない」ために動く。
この二つのちがいはけたはずれに大きい。


私はくすりに関してはトラウマがない。
それは母のしつけのおかげだったとおもう。もし恐怖によるしつけだったら、
「くすり飲まなきゃ、くすり飲まないと大変な事になる」
と、おもっていたかもしれない。くすり飲まないと怒られる。。。と、心の奥が恐怖に駆り立てられただろう。
だけど、くすりを飲むことに冷静だったのは、その項目について何のトラウマもなかったからなのではないだろうか。


ちゃんとしなきゃ、というトラウマは、自分で解消できる。

「ちゃんとしなきゃ」と思いながら行動しようとしている瞬間に気がつく。
パブロフのイヌのように、自動的に反応しようとする自分を見つける。
自分が行動しようとするその瞬間、何が動機になっているのか、理解する。それが本当にやりたくてやっているのか、怒られないためにやっているのか、そして恐怖から逃げるためにやっているのか。

恐怖から逃げるためにやってもいい。
怒られないためにやってもいい。


だけど、その自分に気がついていること。

ちゃんとしなきゃ、とおもいながらやっている自分に、気がついていること。
それを何度も繰り返すうちに、それがしだいに溶解し始める。

恐怖によって動かされる行動が、それを意識することによって、恐怖でなくなっていくようだ。

トラウマは、自然と溶解し始める。


絵:「不屈の人 黒田官兵衛」MF新書表紙イラスト

来年の大河ドラマの主人公だ。
この人ほど、自分自身を深く見つめた人はいないのかもしれない。すごい人だ。

2013年7月4日木曜日

お仕置きは世界を幸せにするか



このごろに限ってではないのだろうけど、変な犯罪が多いね。

ふしぎだなあ~とおもうのは、犯罪を犯すと、捕まって終わり。なところだ。
どんな犯罪も、捕まれば一件落着。

なんで一件落着かというと、つかまると刑務所に入れられて、イタイおもいをするからなんだね。
イタイおもいをすると、もう悪いことはしない(はずだ)ということらしいんだ。

だけどどうも出所したあとも、またやっちゃうことが多いらしいけど。。。


いけないことをすると、お仕置きを受ける。
だからいけないことはしなくなる。
ぎゃくにいうと、お仕置きがいやだから、いけないことはしない。

ということは条件付きなのだ。
痛いおもいをしたくないから、やらないだけなのだ。この世の秩序がかろうじて保たれているのは、お仕置きがあるからなのだ。
これは文明人の進んだあかしなのか。原始人とあまり変わらない気がするが。

ほんでもってイヌにしつけをするときと同じではないか。
人はイヌと同じなのか。
やまんばも子供の時、よくお仕置きを受けた。
やまんばもイヌと同じである。(わ~い)

大きくなっても同じ方法でお仕置きを受ける。
大人も子供と同じなのか。もうちょっとマシな気がするんだが。

いやまてよ。犯罪を犯す人自体が、子供のレベルなのだ。
だからお仕置きを受けるのは当然だ、という。

だけど、犯罪を犯さないまでも、会社に遅刻したら、それなりのお仕置きを受ける。
『定時に帰れ』というおふれが出ても、まわりの上司や同僚が残業していたら、仕事が終わっていても自分だけ先に帰れない。勇気を出して先に帰っちゃったりしたら、後からしかとやいやみやいじわるで、あからさまにはされない、ねちねちとしたお仕置きを受ける。

どっちにしたって、お仕置きを受ける。
犯罪レベルであろうと、なかろうと。

お仕置きを受けて世界がよくなったのだろうか。
お仕置きのおかげでみんなが幸せになったんだろうか。

きっとないよりマシってことなんだろうな。

だけど気がつくと、自分が自分にお仕置きをしていたりする。
自分をどんどん痛めつけていたりする。
自分にムチ打って頑張らないと、もっとひどいニンゲンになるのだ、と思い込んでいる。

それは幸せな生き方なんだろうか。



2013年7月3日水曜日

梅ジャムのはずが。。



畑の帰り、道ばたに熟した梅がごろごろ落ちていた。
持って匂いをかいでみると、い~におい!

友だちのSちゃんの梅山で、さんざん梅三昧した勢いで、
「よしっ、完熟うめのはちみつシロップでも作るか!」
と、落ちてた梅をひろって、蜂蜜に漬ける。

2、3日もしないあいだに、いい感じに汁が上がってきた。匂いをかぐといい香り。
毎日匂いをかいで出来上がりを待ちわびた。

Sちゃん梅と匂いをかいで比べてみる。
なんかじぇんじぇんちがう匂い。。。
やっぱ、完熟梅はえらいちがう匂いやなあ。。。

ほっといているあいだに、どんどん皮がむけ始める。まわりがとろとろに溶けはじめてきた。
やっぱ、完熟梅はちがうんやな。。。。
と、ちがいを「完熟」のせいにしつつ、どことなく一抹の不安を感じながら、日々が過ぎる。。。


今日、母から聞いた梅シロップ作りを参考に、そいつを鍋にかけてみた。
新たにお砂糖と蜂蜜を入れて、くつくつくつくつ煮る。

とろとろになったころ、シロップをこして梅シロップを作り、のこりで梅ジャムをつくる。
出来上がった梅ジャムは、別の味がした。
「。。。?」

も一度なめてみる。
一瞬、頭の中でバウンドケーキの上にかかったアプリコットジャムのイメージが浮かんだ。

「これ、、、まるであんずジャム。。。」

やまんばはあわててネットで調べた。

完熟梅だとおもってひろった黄色い果実は、あんずだった。
不思議なもんで、人は「これは梅!」って決めたら、とことん梅の口になってしまうらしい。どんなちがう味でも「梅ったら、梅なの!」とあくまでも梅にこだわるらしい(わしだけか?)。

しらべると、梅と杏は姉妹関係にあるそーな。梅の木が杏の木になったり、杏の木が梅になったりするそーな。ほんまいかいな。
畑のまわりは梅林なので、やまんばはてっきり梅だとおもっていた。
ひょっとして、まわりが梅だらけのなかで、
「あたし、梅でいるの、飽きた!」
って、一人ストライキを起こした樹であったのか。。。?(やまんばみたいやな)

なんともはや期せずして、アプリコットジャムを作ってしまったのであった。
ちゃんちゃん。

アプリコットジャムデニッシュでも作るかあ〜。



目覚めると、いつも5時半。



「あら、はやいわね」

「え、もう畑いって来たの?」

早朝に道を歩いていると、そう声を描けられる。
やまんばは最近朝めざめるのがはやいのだ。

まず4時に目が覚める。まだはえ~なあ~、とおもって、二度寝する。
つぎ目が覚めると、5時半。いつも5時半。なんでやねん、というほど、5時半。
しょーがないから起きる。することないから畑に行く。すると冒頭の声を描けられてしまうのだ。

今日も畑から帰って、玄関先の草むしりをしていると、
「あら、朝から頑張ってるわねえ」
と、おとなりさん。
頑張ってないから、草ぼうぼうの庭先なんですけど。

話をしていると、あたしも早く目が覚めちゃうのよ~と彼女。
「なんだかしらないけど、いつも5時半なのよ」
へ?

ここいらは5時半に目覚めさせる妖怪でも住んでいるんだろうか。