2025年9月7日日曜日

問題はいつもある

「縄文香炉」NY時代に作った香炉

 

自分の心や、人の心をよく見てみると、

こういうパターンがあることに気がつかないだろうか。


いつも体のどこかが痛い。

いつも誰かしらとの問題を抱えている。

不意に厄介な状況になる、等々。




ある日、体のある部分が痛くなった。

どうにかしてこの痛みを取り除く方法を探し始める。

そしてやっとその痛みが消えたかと思うと、

「今度はここかー」という、思わぬところに痛みが走る。

そして新たな箇所の痛みをとろうと頑張る。


ある人のことが気になる。

どうにかしてその人との間で亀裂が生じないように、

傷口を塞ぐためにあの手この手を考える。

果ては会社を辞めるかまで考え始める。

あるいはもう離婚してしまおうと考える。




人生、常にあらゆる問題が生じる。


これ、妙におかしいと思わん?

一難去ってまた一難。

これの繰り返し。


そこでふとどき者の私は、ある行動に出る。

どんな行動か。


ほっとく。


何もしない。




体の痛みはそう簡単にはできないと思う。

でもどうもおかしい。

なんか常にどこかが痛い。


「あ!ここが痛い!やばい!

これ、ひょっとしたらものすごい病気の前兆かもしれない!

じゃあ、あれやって、ここ行って、アレ貼って、

食事もおかしいかもしれない。

じゃあ、アレは食べないほうがいい、

アレはもっと食べたほうがいい。。。。」


その時、症状はさらに悪化する。


悪化する?

いや、はっきり見え出すといっていいかもしれない。

小さな痛みだったものが、どんどん大きくなってくるのだ。


恐れを感じてそれを対処しようとすればするほど、ますます状況は悪化する。

さらに焦って頭の中は必死で考える。。。。。




これがこの世界を不幸にさせているものなんじゃないか?


惨めで恐ろしくて一人ぼっちで誰も助けてくれない世界にさせているんじゃないか?


私?

本当は私がそれをやっている?


問題を見つけると、「あーっ!問題だ!」

と、そこにフォーカスする。


最初はちっこかった問題はどんどん大きくなり、

どんどんはっきりと形を帯び、どんどん重くずっしりとのしかかる。

世界とは、こうやって作られているのではないか。


反対に、ぽよ~んとした気分でいると、

世界は軽く煙のようにたなびき、ホワ~んと消えていく。


自分がどう見るか。

それにかかっているんではないか?

重苦しく辛いものにするのも、

軽くふわふわしたものにするのも、

自分次第だったりして。。。




で、私はほっといた。

どうなる?これ。

好きにさせてみよう。


先日の味覚障害もほっといたら勝手に治った。


ある夜いきなり足首を捻挫してびっこ引いて歩き出した。

シップしたらいいのだろうか。

冷やしたほうがいいのだろうかと考えたけど、

ほおって置いたらどうなる?とほおっておいた。

次の日、完全に忘れてる。



なぜ問題はいつもやってくるのか。


まず体。

体の痛みは、私が体であるという訴えなんではないか。


「お前は体だ。お前は体だ。

ほーら、痛みがあるだろう?だからお前は体なのだ。」と。


その訴えは、体とは常に欠陥があって、問題を抱える厄介な代物だ。

そうだ。それがお前なのだ。

どうにかしろ。どうにかしろ。


その考えの根本は、この世界はあるということを常に証明してこようとする。


問題定義は、この世界を実在させるアイテムなのだ。


それは人間関係も社会的立ち位置も、経済問題も、

ありとあらゆる形をとって問題定義をしてくる。

「この世界はある!」と。


この世界は問題だらけで、自分で解決せよ!と。

そのためにはありとあらゆる知識を導入して

フル活動させてサバイバルしなければいけない。

そうでないとお前は人間失格だ!と。




だが、そこに答えはない。

その中でどんなに頭が良くなろうと、解決できるものなどないのだ。


だってこの世界で思いっきり頭のいい人たちの知恵を総動員させている状態なのに

この世界はちっとも完璧にならないし、ちっとも幸せにならないじゃないか。


そんな中で、このちっこい頭の私が

必死になってこの世界でどうにか生きようとしたって、

いや。そりゃー土台無理ってもんよ。





そこに答えがないってことを知ることや。

この世界自体矛盾に満ちて完璧じゃない。


運転席を離れて、助手席に座る。


自分でハンドル持って運転している気になっていたけど、

実はそのハンドルは車につながっていない。

おもちゃのハンドルで必死になって運転している気になってただけだった。


だからほっとく。

はあ~と、くつろぐ。


運転席だと思っていたのは実は助手席だった。

右ハンドルだと思っていたら、

この車はアメ車の左ハンドルだった。


脱力してふと隣を見たら、

ニコニコしながら運転してくれている聖霊がいた。








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