人にこうしてほしいという思いがあるとき、
勇気を持って「こうしてほしい」とお願いするが、
「嫌だ」と言われるととても苦しい。
その苦しい思いを心(聖霊)に打ち明ける。
これをどう見ればいいのですか?
夜中に教えられる。
ああ、私は愛を求めて叫んでいるんだ。
人にこうしてほしいとは、「私を愛してくれ!」という思いなのだ。
人は自分が望む形に他人が合わせてくれることでホッとする。
それは意識の上では気がつかないが、
その形で表されたことが愛されているのだという証拠としている。
しかし形によってそれを求めることは、
形は必ず変化するため、また同じ欠乏を感じ始める。
その連鎖はそこに答えがないことを知るまで続く。
形を求めることは、自分が愛されていないと信じていることからくる。
だからこその「私を愛してくれ!」という心の叫びがある。
自分の中にそれほどの願望があるとは思わなかった。
恥ずかしくなった。
それは神に愛してくれと言っていることだった。
神は私を愛してやまない。
私が何をしようと、どんな卑劣なことを行おうと、
どんなえげつない考えをもとうとまったく気にしない。
ところがそれに私は気づけない。
なぜなら、実在しないが、
あるという信念によって存在させ続けている罪悪感というものに阻まれて、
神の思いを直接受け取れないからだ。
というか、神の思いを受け取るのが怖いのだ。
「こんな罪深い私に神は愛をくれるなどと、もってのほか!」と。
愛を求めて叫んでいるのに、愛を阻んで苦しんでいる私。。。。
その時、聖霊は別の見方を与えてくれた。
そんな私を「愛おしい」と思ったのだ。。。。!
愛おしくて愛おしくて、、、
ああ、なんと愛おしいのだ。。。
一瞬で心が広がった。
見るものすべてが愛おしくなった。
苦しんでいる心、憎み続ける心、恐れおののく心、怒りに震える心、、、、
すべてが愛おしく見えた。
これが、、、
これが聖霊の視点、、、
そして、これが夢を見るものの視点なのか。
肉眼で見えるすべてのものが、目の前に展開するあらゆる出来事が、
すべて等しく愛おしい。
喜びの眼で世界を見つめる。
まさしく、夢(幻想)を、夢(幻想)として知って見ている視点だった。
すべての出来事は、その人が解放に向かう道、自由への道しるべ。
掴んで離さないためにあるのか、
それを手放すためにあるのか。
それを心の友と一緒に見ていく喜び。
絵:インディアン
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