散歩していたら、不思議な感覚になった。
自分が風景の一部になり、独立した人間の私がいなくなった。
空間の中に肉体を持った一つの人間の私がいるのではなく、見えている体さえもが風景となんら変わらないものとなり、重要でなくなり、「私がいる」という感覚がなくなった。
今だけが存在していて、「私」と思っているものは、とても希薄で、はかなく、かろうじて存在しているもの。
別な言い方をすれば、そこに現れていることが、まあなんとラッキー💙ってな感じ?
自分がいなくなる話はよく聞く。こんなことなのかな?
わからないけれど、悲しいことではなく、むしろとても暖かい。
一つ一つのシーンが描かれたおびただしいフィルムの中にいる「私」らしきもの。
顔は見えないが、手や足や胴体は見える。
そのシーンの中に見える「私」らしきものに、私は次第にフォーカスし、それに愛着を持ち、それと一つになる。。。そういう夢を見ているのだ。
その一枚の風景には、私の物語はない。だから私は風景の一部。
過去はない。
その一枚は今。
そこには喜びしかなかった。
しかしやがて過去が忍び寄ってきて物語が思い出され、この「私」と同一化する。そしてこの「私」が捏造される。
自我によって作り出された「時間」。
私たちの心は絶えず過去に縛り付けられている。過去を通して自分のアイデンティティを確立させる。私の名前、生い立ち、肩書き、起こってきた過去。。。そういう過去全てを背負って、「私」と言っている。
全て過去だ。過去は自我のもの。つまり私は自我のいいなりである。
だが唯一自我が入り込めないところがある。それが今。
あの時私は今にいた。
今にいたから自分の過去が消えていた。
物語も消えていた。
物語が消えるとは、あらゆる心配事がない。全てを忘れると、一切心配事が消えるじゃないか。その時、私は今にいる。
そして本当に「今にいる」とは、喜びしかなかった。
切り株に座って、今を思い出していた。
思い出すとは普通、過去のことを言う。しかしわざわざ思い出すまでもなく、私たちはどっぷりと過去と同居している。あの人が、あれが、、、と考えている時、もうすでに過去の物語の中にいる。
だからこそ、今を思い出すのだ。
完全に忘れている今を。
目の前の風景に目をやる。
伐採された杉の木が積み上げられている。
ただのなんでもない風景が嬉しくなる。
物語に囚われていない時、そこには喜びがあった。
自我の中に埋没していない時、自由があった。
いないのは私ではなく、自我だった。
そして自我でない私は、喜びそのものだった。
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