喜びは、何かで得られるものだと思ってきた。
美味しいものを食べる喜び、
友達とワイワイやる喜び、
仕事が終わったー!という喜び、
道端に咲いた小さな花を見つけた時の喜び、
面白い映画を見ている時の喜び、
空を見上げた時の喜び、、、。
喜びは、何かをして得られるものだから、常に喜びを探していた。喜べる何かを。
喜ぶことは幸せ。幸せは手に入れるもの。喜びも手に入れるもの。
しかし本当はそうではなかった。
喜びはもともとそこにあるものだった。
それに気がつき始めたのは、ふいに訪れる謎の幸福感からだった。
何もしていないのに、そよそよと胸の奥から溢れてくる喜び。
「え、何?今、私何かした?」
と、慌てて探す。
何かをして得られるものだと、当然のように思っているからだ。
しかしさっきから椅子に座って、パソコンを見ているだけ。
面白い情報が見つかったわけでもない。
パソコンに向かっている時だけじゃない、
部屋を移動している時、
庭に目をやっている時、
そしてただ道を歩いているだけの時にやってきた。
心に何も思い出したわけでもないのに、嬉しさがこみ上げてくる。
なんという感覚と言えばいいのか、
胸のあたりがふわっと暖かくなる。そして自然とニヤケてくる。
山道を歩きながらヘラヘラ笑ってる白髪頭のオババと人が遭遇したら、
それはもう山姥としか見えないだろう。
歩きながら全身が喜びで満たされてくる。
見るもの、聞こえるもの、全部が私を祝福してくれている感じ。
両手を下に広げて、道の脇にボウボウ伸びている草たちに触れながら歩く。
「嬉しい。嬉しい。嬉しい。。。!」
涙まで流れ始める。大声で叫びたくなる。
「みんな、ありがとう!愛してるよ!」
そんなことが起こるたびに、私たちの本性はもともと喜びの塊なんだとわかってきた。
ただただ喜びの存在なのだけど、そこに蓋をされているだけなのだと。
私たちは常に、何かを探して求めている。
それは一番深いところに、「私たちは何かが欠けている」という深い欠乏感から来ている。
欠けているからこそ、それを埋めなければならないと、
無意識に常に何かを探し求めているのだ。
そしてケーキを食べた瞬間、その探すことが一瞬だけ止まる。
仕事を終えた瞬間、その探すことが止まる。
その一瞬の探し求める衝動が消えたスキマに、
本来の喜びの私たちが顔をのぞかせる。
仕事が終わったから喜びがきたわけでも、
ケーキを食べたから喜びがきたわけでもなかったのだ。
探し求める思いが一瞬消えて途切れたから、
本性である喜びが顔を見せただけだったのだ。
私たちは喜び。
喜ぶことが私たちの仕事。
喜べば、そこに神がいる。
肉体を持つ私たちの耳には聞こえない音楽を、
声のしない歌を、
神は歌っている。
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