ずーーっと、自分の罪悪感と戦ってきた。これでもかーこれでもかーと。
我ながらすごいと思う。この集中力。これが仕事にも生かされてたら今頃、、、とは思わないけどね。
とかく私は専売特許のように、「罪悪感を持つ女」を演じてきた。
最初はわかりやすい大きな罪悪感と戦っていた。
それが成敗されると、徐々にそのスケールは小さくなっていき、
もっと微妙な罪悪感と戦い、
そして最後は「これはなに?」というぐらい微細な罪悪感と戦いだした。
それまで罪悪感は言葉に変換できた。
「これはこれこれこういうような意味の罪悪感」というふうに。
ところが今回のそれはまったく言葉に変換できず、全身にざわざわとした、ちりめんビブラートのような振動を感じ続けるだけになった。
も、もうお手上げだ。。。
そんな時ある人との出会いで、罪悪感に対する見方が変わっていく。
この世界は罪悪感でできている。
それは事実。だけどその仕組みをしっかりと知るだけでいい。
これは必須科目。どうしても知らねばならない。
それを見ることはこの世界のほころびに気がつくようなもの。
それを見ないでいることは、無意識の罪悪感の中で、いくらでも自我の隠れる場所を作る。
しかし冒頭の私のように、その罪悪感を解体し続けることではない。
罪悪感によってこの世界が作られていることを知ることは、それがなければこの世界も存在しないという事。
この世界が夢、幻ならば、その幻の中の罪悪感など、もともとありもしないというところに戻っていく必要があるのだ。
わたしが罪悪感を消そうとすることは、逆にそれを「ある、絶対あるのだ!」と存在させ続けていたことだった。
それは、見れば見るほどそれを実在させる恐れと似ている。
罪悪感とは罪を見ること。
自分や人の中に罪を見て、それを裁くこと。
私は「罪悪感を持つ女」を演じてきたが、それとは反対に、「人に罪悪感を見る男」っちゅうのんもあるが、本当はその人も無意識で自分を裁いている。どのみち自分の中の罪悪感を見ることになる。
私の場合はその直進型。人に罪を見る人はブーメラン型。
罪を見ることは、この世界はいつまでも恐ろしい世界に見える。
人や自分に罪がなくなったら、平和な世界が生まれるのではなく、
「罪などないと知ること」が心の平和をもたらす。
心に平和が戻り始めた時、硬く高く隔てられた城壁のような人との壁は、
夏の麻の暖簾のようにやさしくなっていく。
自分がいかに罪を見ようとしていたことか。。そうやって自分と他人を分離したがっていたのだ。
私とあなたは違う!と。
それから私は自分の中や人の行為に罪を見つけても、それを追いかけるのをやめていった。
まもなくそれに同調するように、ゆっくりとまわりが穏やかになっていった。
そういう現象を見るうち、私と人はまったく同じなのではないか?と思い始める。
「他人は自分を写し出す鏡」とはそういうことだったのか。
ということは、あなたに罪があると見ると、私に罪があると見ることになり、
あなたが間違っていると思うということは、私も間違っているということになる。
しかしあなたが正しいと思う時、私もまた正しいのだ。
自我は私に「そうは言っても、あっちがおかしい。なぜなら。。」と畳み掛けるように言ってくる。
しかしたとえそれが正しいとして、一体それがなんだろう。
せいぜい自分がいい気分になるだけだ。そこになんの和解もない。
男と女の間には~深くて暗い~川がある~♪(古すぎる!知ってる人いるんやろか?)
しかし渡れぬ川はなかった。もともと川などなかったのだ。
お互いが違うと主張すれば、そこに深い川ができ、
お互いが同じだと思えば、そこに草原が出現する。
長いこと惹きつけられていた、私にとっての罪悪感の魅力は、その力を失った。
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