心の中を流れる言葉の中に、いつも引っかかるものがある。
引っかかるものを整理してみると、いくつかの項目に分かれる。
将来の不安、過去の汚点、経済問題、等々あるけれど、ある特定の人物に向けられるっていうのがある。その特定の人物を川の流れに見つけるやいなや、それに飛びついて掴んで噛み付く。んでいつの間にか一緒に流されていく(笑)。
そういうことを何度か繰り返すうち、
「これ、私の自我の温床になってる。。。」と、初めて気がつく。
その特定の人物を思い出すと、即座に私の怒りや恐れが芋づる式に引っ張り出されて、泥沼状態となっている自分に気がつくと、これまたなんとかそれを鎮めようと格闘する。。。
こういう一連のパターンを見つけると、そもそもその人物でなくてもいいのだとわかってくる。
AさんでもBさんでもCさんでも誰でもいいのだ。
自我は私が不幸におちいるためにはなんだって使う。
ただその時の私の旬に合わせて、
「ほら、お嬢さん、この桃今食べごろだよ~美味しいよ~~」
と、目の前にどんぶらこと桃を流してくるのだ。
川で洗濯していたおばあさんは、その美味しそうな桃をむんずとつかみ、ガブッとやる。
そのとたん、桃から生まれた桃太郎が、おばあさんの恐れを引き起こすのだ(話ぜんぜんちゃうやろ)。
この恐れや不安が、この世界を実在させている。ブッダはこの世界は幻想だと見破った。そしてこの世界があると思わせているのは「苦」だと。
私が今食べている桃は「苦」だ。自我から受け取った苦を本物だと信じて、それと格闘していたのだ。
しかし私はそれを別のものに変えることができる。なぜならその川も桃も作り出したのは私だから。こっちの意志でいかようにでも変えられるというのは救いではないだろうか。
私はそれを自我からの視点ではなく、聖霊の目で見る。
聖霊の視点とは、分離を見ない視点。自我はその反対で分離を見る視点。
もともと私たちが持っていたのは、あなたも私も一緒という聖霊の視点。しかし自我の視点はあなたと私は違うという。この視点により、私たちは互いが分離するこの世界を作った。しかし同時に苦も生まれた。
おばあさんが川で洗濯をしていると、
目の前を美味しそうな桃がどんぶらこと流れてきた。
おばあさんはそれをそっと両手ですくい上げ、
その美しいすがたを愛で、
甘い匂いを嗅ぎ、
お山に感謝を捧げた。
そのとたん、お山も桃もおばあさんも一つになり、
天から大きな声が降り注いだ。
「ありがとう」
川を眺める。
心の中を見るように。
心地よい風が頬を撫でていった。
写真/海沼武史
0 件のコメント:
コメントを投稿