2010年9月25日土曜日
理想はおねだり
自分を否定するということは、今の自分がイヤだということだ(あたりまえだろ)。だがそれを否定するということは、今の自分がイヤだをイヤだすることで、要するに今の自分でいい、ということだ。(ややこしーのー)
そーやって一つづつ否定を否定していった。
まず最初に感ついたことは、どんだけ自分をいじめていたかということだ。あれもダメ、これもダメ、あれしちゃいけないこれしちゃいけない。細胞の隅々までチェック機能がほどこされ、完璧に作動。足を一歩踏み出すごとに「あ、それダメ」「ああ、それもダメ」とチェックおばさんがいう。そうやってやること成すことをいちいちさまたげられ、だんだんストレスがたまって来る。そしてあげくの果てに爆発し、いきなりぶっ飛んだことしてしまうのだ。それを繰り返していた自分に気がつく。
人は自分や他人に理想の姿を描いて、それに向かって人間を改造していく。それはそれで人に迷惑かけない生き方を教えてはくれる。しかしそれも行き過ぎると自分はダメなんだ、人間としてサイテーなんだと、ふさぎ込む方向にももっていってくれる。「理想による改革」は、諸刃の剣でもある。「理想」と言うと美しく聞こえるが、よく考えたら、今置かれた状況がイヤだから、こーあるべきだといいつつ、実はおねだりしていることだ。
理想は国家の改革から、自分のダンナの改革まで、ピンからキリまで使われる。
だけどその心理の根底に流れるものは、「こんなのいやよ」と不満を持っていることなのだ。
つまり今ある状況が気に入らないのだ。自分も他人も世間も政府も。じゃあなんで気に入らないかと言うと、「こうあるべき」という理想があるからだ。はて、そのこうあるべきは、どっからきたのだ?
最初に親にもらい、せんせーにもらい、マンガでもらい、本でもらい、テレビでもらい、きんじょのおばさんにもらう。そのおばさんは、その親にもらい、その親はそのまた親にもらう。
そんなに長いこともらい続けていたら、さぞかしニンゲンにとってすばらしー理想なんだろう。しかしそんなに長いこと受け継いで来ている理想があるのに、しあわせそーな人々はあまりみあたらない。なんでや?
そこにどっかに無理があるんとちがうんか?
そこで「こうあるべき理想」をポイって、ほっぽってみることにする。今ある自分をそのまんま受け取ることをしてみるのだ。アホな自分、失敗こく自分、怒られる自分、だらしない自分、みっともない自分、KYな自分、才能ねえなあ〜と感じる自分、へたくそな絵やなあ〜と思う自分を、みんな笑って受け入れてしまうのだ。
そうすると、何一つ自分にジャッジしていないのに気がついた。
朝起きた瞬間に喋っていた心、例えば、
「いかん!寝すぎた!やばい!」
という思考が、いつのまにか消えている。寝坊は、単に寝坊しただけのことだ。今まではそれに対して「まずい!」というジャッジが入り込んでいた。しかし、否定を否定し始めたら、「あ、寝坊した」と思うだけなのだ。そこには、まずい!怒られる!仕事にさしさわる!おまんま食い上げだ!という思考はない。
いままでだと、たったひとつ、「まずい!」と思うだけで、「おまんま食い上げだ!」というネガティブな結論にまで達する。
しかし、ジャッジがないと、「あ、起きよ〜」とおもうだけなのだ。
この違いはすごいのだ!
アホなことしてダンナにぷりっと怒られたとする。
すると瞬時に「なによ!あんただって!」とおもう。その心の裏には悪いことした、という後悔の念が混ざり込んでいる。つまり、そこに自分に対するジャッジが入り込むのだ。ところが罪悪感が起こると、同時に自己防衛に入る。それは自己正当化という方法をとって。
「あんただってあんときこうやったじゃないの、それならあたしだって悪かあないわよ!」
そんなものもろの思考を、私は瞬時に自動的にやっているのだ。
だが、ぷりっと怒られても、その瞬時の自動的な反応に自分自身が気がつくと、「あ、またやっちゃった?ごめん」と素直にいえちゃうのだ。
これはやっちゃった自分を真正面から見ている。
前の状態だと、やっちゃった自分を真正面から見ようとはしなかった。なぜなら、罪悪感が先に立つからだ。その罪悪感に押しつぶされそうになって、その苦しさから逃れるために自分を正当化する。その正当化に忙しくて、自分のやったことをみようとしなくなる。そしてまた同じことを繰り返していく。
人は、まず自分自身を肯定することから始まるんじゃないだろうか。なんでもいい、それでいい、とオッケーすることではなく、まず自分にジャッジしないことだ。いいとか、悪いとか考えないことだ。真実をそのまんまみるという行為。ただみるという行為。
しかしたぶん、この世の人々のほとんどが、瞬時にジャッジしている。そのジャッジは裏を返せば自己防衛によるものだ。
人をジャッジすると、自分を高みに置くことが出来る。それは自分と他人をちがう存在なのだと線を引いてしまうことにもなる。
また、自分をジャッジすることは、本来の自分と理想の自分に線を引いてしまうことになる。
ホントは理想の自分なんていないんじゃないか?その今ある自分そのものがホントの自分なんじゃないか?ただ人はそのホントの自分を見るのが怖い。理想というフェルターを通して自分の姿を見てしまうから、ちらっと自分の姿を見ては「ああイヤだ」と思ってしまうのだ。
だが理想なんて勝手に作られたものだ。それがホントに自分に当てはまるなんて思える?世の中に、理想どおりの人間がもしいたら、なんて個性のない面白みのない人間だとおもわない?外にある型の中にはまったって、苦しいばっかりだ。そりゃ、型にはまっておきさえすれば、人に後ろ指さされないもん。それだって自己防衛だ。
わしゃ、自分を否定するのが趣味だったことに気がついた。これは自分をいたぶって、生きている実感を得ると言うちょっとマゾヒスティックで、あほらしー趣味だった。まったく自分自身を生きていない行為だったのだ。これから自分を生きるために、この趣味から脱却することを宣言する!
絵:コージーミステリー表紙のためのイラスト
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6 件のコメント:
まぁ、自分含めてみんな、なんとかやりくりしながら生きてるんだよね・・。
んで、歳食うとやりくりする気力が落ちてるのを感じるわけです・・。
きのうはごちそうさまでした!
楽しいお友達と、なかなか内容深いお話をありがとうございました!
みんな色々ご苦労なさっているなあ〜と感じました。やりくりもたいへんです。
歳いって、やりくりする気力もなくなってきたなら、このさい、やりくりはやめて、そのまんまでいましょう。やりくりなし!あるがまま!
あるがまま。は、私の場合は集団生活向きじゃないのでね。そこがよろしくないところ。
あるがままというのは、自分がやりたいことをするわがままではなくて、置かれた状況に抵抗しない、ということなのだ。
わたしのいいかたがまちがっちゃったけど、
やりくりもどこかでいやだなあ〜とおもいながらやるとつらい。でもその状況をそのまんま淡々と受け取ると、楽になる、ということなんだとおもうなあ。
むずかしーね。
問題は、自意識なのでしょう? やりたいことをやれている人は、自分がどんな人か、どんな人であるべきか、なんて意識していないはずです。
一度、外から形作られた自意識を、ふるい落としてみたらいいです。人間関係は幻想なのですから、こだわる必要ないです。
操体法という、「のび」をするような、一種の健康法のようなものがあるのですが、あれの原則は、「気持ちがいいように体を動かす」なのです。
それに似て、心が解放されて、気持ちよくなるようなことを選んでやっていけば、強健な自己が育っていくのではないでしょうか。
自分の体のことは自分の体に聞く、自分の心のことは自分の心に聞く、ということです。
まさにそうなんです。問題は自意識なんです。
自意識が「あ〜でもない、こ〜でもない」と騒ぎ立てるんです。んで、人はそれに振り回される。自分で自分に振り回されている。田中さんみたいにそれに気がついて振り落とせる人は強い。
私も身体と心に伸びをして、いらんものをふるい落とし、あるがままで生きたいです!
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