2013年11月16日土曜日

神が「お金あれ」といわれたら。。。



引き寄せの法則っちゅーのんがあるやんか。あれはお金持ちになるぞなるぞと言い続けたら、なれるっちゅーはなしのようだ(ものすごいざっくりやな)。

もしそんなもんがあるんなら、世の中の人はみーんなお金持ちになってハッピーエンド。しかーし、げんじつはそーならない。なんでや?あの法則はうそなんか?まゆつばなんか?

量子力学的にいえば、観察されるものは観察するものの影響を受ける。
これ以上分解できないほどのものすごーい小さな物質は、『粒子』でもあるし、『波』でもある。とゆーことは、それは物質でもあれば、非物質でもあるっちゅーことだ。で、それは観察されることによって物質として現れて来るとゆーことになっている。

「最初に言葉ありき」と聖書でもいう。
ほんでもって我が国は、「コトアゲせぬ国」という。
どーも言葉がポイントらしい。。。
非物質のものが、物質としてあらわれてくるには、言葉がいる。
量子は、見ることによって、物質として現れてくる。

神様が、
「光あれ」
といえば光が現れた。
夕暮れのうす暗い部屋の中、やまんばが、
「光あれ」
といっても、いっこうに光はあらわれない。
ふんむむむ~~~~~~っと力をふりしぼっても、いっこうに明るくなんない。ライトのスイッチをぽちっと押したほーが断然速い。

このちがいはなんなんだ!(わかっているくせに)

そのちがいをブンセキしてみるに(おまえは神様とタイトーなんか)、
それは意識じゃないかと。。。

つまりだな。やまんばは、言葉を単なる音の違いぐらいにしか考えてない。人に情報を伝える道具としか考えてない。言葉には、言霊がはいってるってゆーぐらいで、ほんとは言葉は単なるコミュニケーションの道具だけじゃないんじゃなかったんだろうか。

わしらは言葉をぞんざいに扱っている。
日本人はえてしてモノはだいじにする。ほら、モノには魂が宿るってゆーくらいで。
ところが言葉には魂がやどるとあまりおもってない。だからどんどん使う。へーきでつかう。「愛」とか「感謝」とか、あまり気持ちを込めないまま大量生産している。どっかで「これ言っときゃ無難にやり過ごせるしね」みたいな。

この現代人の言葉のあつかいが、昔の人とちがうんではないか?と、ふとどきにもブンセキしたわけだ。
よーするに気持ちが入ってないから、引き寄せられんのか?

ところが。
もう一方で、ポジティブじゃないほうの言葉もぞんざいにつかっている。
あたしはだめなのよ。とか、年いったから。とか。
まー、この言葉。みんながなにげに使う。無防備に使う。

これさー、ヤバイのよね。(いい意味?悪い意味?)

ウチの母親もよーく会話の節々に枕詞のよーに使う。
「もーあたし、年いったから○○なのよ~」
「けんど、年いったからそーなるのよ~」
「あんたもそのうち年いくとねえ、○○になるのよ~」

年いったから朝起きれん、年いったから早起きになる。
年いったから太る、年いったからやせる。

この言葉、ひじょーに便利だ。何にでも使える。
そしてどんないいわけにもなる。とくに自分より年下のヤツには一発で説得力を持つ。
それをいわれちゃ、グーの根も出ない。

これは相手を説得すると同時に、自分をも納得させられる。一番大きなBecauseになる。
ほんとゆーと、自分で自分に言い訳をしているのだが。自分に自分で言い聞かせているともいえる。

最近しわが出来たり、仕事がおぼつかなくなったりする。するとあせってくる。やばい。これじゃだめだ。なんとかして努力してしわも消し、仕事もこなそーとする。だけどうまくいかない。ああ、やっぱりだめなんだ。
やっぱりこれは年のせい。。。。?

おおっ!そうか!
これはきっと年のせいなんだ!
なるほどなるほど。
そーいや、近所のばばあもこんなかんじだ。おおっ、そのとなりのじじいもそんなかんじだ。そーだ!おれは、
「と、し、が、いったんだああああああっ!」
っと、大手を振ってそれに乗っかれるのだ。
(それに乗っかってるのはほかでもない)

じつはこっちのほうが、力学がはたらいているホーなのだ。
引き寄せられてるホーなのだ!
ががーん!!!!

引き寄せの法則はネガティブに引っ張られてる????



2013年11月15日金曜日

寒さに弱いソフト



寒いねえ。
やまんばははんてん着たり、ストーブつけたり、コタツつけたり、ホットカーペットつけたり。
高尾はさむいのよん。(ちっともやまんばじゃねえじゃん)

だけどこれがアナスタシアだったら、チュニックひとつでシベリアのタイガでぶ~らぶら。今頃、極寒の森の中で、息子と一緒にクマと戯れてるんだろうなあ。
ああ、アナスタシアのデータがあったら、
「データ入力、開始」
とかいっちゃって、ばばばばば~~~って、入力しちゃって、高尾の山をシミーズひとつで(古い)ぐおおおお~~~ん!ってつっぱしれるんだろーなー。

ほんでもって、マトリックスのネオのデータもいれちゃって、宇宙までグイーンと飛べちゃうし、世界中で起こっている戦争に出かけていって、玉という玉をお手てでばしばしって止めちゃえて、だれひとりも殺されずにすんじゃうんだけどなあ。

だけどそのデータもほんとは最初っから入力されてるデータなんだけど、それを使うとバグがでるとか、それは秘密の領域であるから触ってはいけないのだといわれて、よーするに、脅されて使えなくさせられてんのかもしれんしなあ。

まっ、生まれてから起動させる内容が、自分の親見てソフトを起動させ始めるからムリはないか。
すぐ近くにいる似たような生き物が空飛んでたり、裸でおどってたりしてたら、それはそーゆーもんだとおもって、その子もマネするわな。

だけどその親が、世間にぶつぶつ文句いってたり、飛べるわけないだろって思ってたり、ニンゲンはこんなに小さくて、限界だらけの生きもんだって信じてたら、やっぱそーゆーふうにおもうわな。

だから自然とからだもそんな形に変わる。飛べない形や、寒さに耐えられない形などに、ね。

とゆーことは、何を信じるかによって作られるわけだ。そのことはウチのかあちゃんの『勝手に背骨作っちゃったよ〜ん事件』で教えられる。
とゆーことは、アナスタシアデータもネオデータも、その気になりゃ、起動できるってことだ。

やまんばは寒さに弱いと信じている。


信じ方はいくらでも変えられる。それはコンピューターが教えてくれている。データを起動させればいいのだ。
だけどすでに寒さに弱いというソフトが立ち上がっているときに、寒さに強いソフトも立ち上げることは混乱をまねく。
いったん、寒さに弱いというソフトをゴミ箱にポイする必要がある。

さて、やまんばは寒さに弱いソフトを本気でボイできるか。


2013年11月14日木曜日

植物のだいじなあそこ



かんじんかなめってあるじゃない。
植物にもある。
なんつーのか名前はわからんけど、植物の生長するところっちゅーのんがあって、
それが、ここ!


はくさいでいえば、


ほうれん草でいえば、


ついでにカブは、


ちっちゃいとき、母親にほうれん草のおひたしの紫色のところをご飯の上に乗っけられて、
「ここ食べなさい。ここ!ここが一番栄養があるのよ!」
ってムリヤリ食わされた。
食ってみると苦~い。ムリヤリだったこともあって、トラウマになっていた。

どーも、ここ、いっちゃんだいじーなところのよーで、ここさえ残っていれば、あとからあとから新しい葉っぱが出始める。



去年もダイコンの葉っぱがいっぱい余ってたから、風呂でダイコン風呂やったんだ。
ダイコンの根元を切って、葉っぱを干し、からっからにして風呂に浮かべる。一日だけ使うのもったいないから、何日も使う。お風呂の水を抜いたあとは、風呂釜の縁においとくんだけど、葉っぱが枯れてまったくなくなっても、いつのまにかまた青々とした新しい葉っぱが出て来るんだ。根っこは何にもないんだよ。それなのに、いつまで~~~~も、葉っぱを出す。どんだけ生命力つえ~んだ?



去年はダイコンをサルに食われまくったが、あいつら、食ってるところがそこだけなんだ。あのかなめのところ。
葉っぱなんか見向きもしねえ。ダイコンの本体なんかちょろっと食うだけだ。
一番メインで食ってんのが、そこ!

どーもニンゲンはサルの食わねえ部分を食ってる。生命力溢れるだいじーなぶぶんは、捨ててんのかもしれんな。

なんかサルに、
「だからおれたちゃ元気なんだよ、ばーか」
っていわれてるみたいだ。

2013年11月13日水曜日

このびみょ〜で、はっきりとしたちがい



朝起きたら寒かった。
布団から出るのがいやだ。うんちょと起きてファンヒーターのぽっちを押す。
また布団にもぐる。部屋があったかくなるまでまっとお~っと。

5分ほどうとうとする。
もうあったまったかな?いやまだ寒い。もー少し布団にくるまっていよう。
1分経過。うだうだ。
2分経過。まだうだうだ。
3分経過。。。

ふいにがばっと起きる。
起きた。起きたと思ったら心がしゃべりはじめた。
やっぱりさむい。まだ布団の中にいようか。
上半身を起こしたまま、掛け布団をたたみはじめる。
ああいやだ。さむい。これからもっと寒くなる。今からこんなに寒がってどーする。
いや~な気持ちがどんどん溢れ出した。

あれ。。。
このびみょ~で、はっきりとした違いはなんだ?

うまくいえないが、細かくくぎって状況を説明してみよう。

目が覚める。
瞬間寒いと気がつく。とたんにイヤな気分になる。
だが意を決して、ストーブのポッチを押す。
布団に入る。思考が怒濤のように押し寄せてくる。イヤな気分を回避するために、いいわけをしこたま始める。まだ寒いから。風邪引くから。部屋が暖まるまで。思考が押し寄せる。イヤな気分は回避されるどころか、ますます感情はネガティブになる。。。

一瞬、思考が消えた。
とおもったら、がばっと上半身を起こしていた。

身体を起こしている自分に気がつき、またもや思考が押し寄せる。ああいやだ。寒い。まだ全然部屋あったまってないじゃん。。。。
ふとん。。。たたむの?まだ寝てていいじゃん。たたんだら起きなきゃいけないよ。。。

朝から怒濤の思考にびっくり。しかしその思考によって、感情が刺激され、それに身体が反応していた。
なんと思考の開始によって、身体が動かなくなるのだ。

しかし。

思考をとめている時、身体はすんなりと動き始める。寒いとかまるで意識していない。ちゃっちゃちゃっちゃと動いている。

なんじゃこりゃ?

思考していないと、感情が発令されていないから、身体はすんなり動いている。
しかしいったん思考を始めると、とたんに感情的になり、身体が動きたがらなくなるのだ。

ここまで思考と感情と身体はくっついているのかーっ!


考える前に身体動かせってのはこのことかあ?
でもこれは、なにかことを起こすためにいわれてる言葉じゃなかったっけ?
それがこーんな、たんに朝起きることでさえも応用できることだったんかいな。


え、みんな知ってたの?

え~~、はやくおしえてよお~~。

2013年11月11日月曜日

信じるものはスクワレル?




私が太るのは、食べるから太るのか。
それとも、食べれば太るとおもいこんでいるから太るのか。

ではいくら食べてもやせてて太らない人は、どーなるのか。
それは、「あたしはいくら食べても太らないのよ。。。」
と信じているからそーなるのか。

年がいくとしわが寄るのは、
年がいけば自然の摂理としてしわが寄るからなのか、
それとも、年がいけばしわが寄ると教えられたからか。
それとも、年がいった人を見ればみんなしわが寄っていて、それを見て
「なるほど年がいくとはしわが寄るものなのだ」
と、『確信した』から、それで自分のからだもそーなったのか。

では年がいってもしわがあまりない人はどーなるのだ。
それは年としわは関連しないと教えられたからか。
それとも、年ががいってもしわにならないと信じているからか。
それとも、まわりにしわのある人がいなかったからなのか。

あたまがこんがらがる。

すると科学はいう。
太るも、痩せるも、しわも、遺伝子のせいだ。
ああ、すべて、か、い、け、つ。
しかもなすすべなし。


信じたものはその通りになる。
信じるものは救われる。

みんなが信じたものを横並びに信じれば、みんなと同じよーになり、救われる。

みんなが信じるものを「はて?」とおもうと、
「それ、空気読んでないし」と言われて救われない。

それはいったい「誰に」救ってもらうのだ?

ときどきそれは信じ方によっては足をすくわれる。


絵:MF新書「偏差値37なのに就職率9割の大学」表紙イラスト
つまり学歴と人生のコースはまるで関係ないと言い切ってくれた革新的な本だ!
信じるものは救われるが、どう、信じるか、あなた次第ということだ。


2013年11月6日水曜日

「こぼれ種でいきましょ〜っ」てか?



ぐっと寒くなって来た。
秋の最後の種まき、スナップエンドウ、絹さや、小麦蒔きもメインは終わった。あとは、実験的に小麦をフェンス沿いに蒔こうと思う。なぜか小麦が生えて来るあたりは、草が勢いを失うのだ。特に南東の角と北西の角は山からのクズや竹やいばらやすすきの勢いがすごい。わらわらと自然が押し寄せて来るのだ。

「ここここ!ここん範囲がわしの陣地!」
ってうったえておかないと、
「おお?ここあいてるぜ」
と、山の勢力がずんずん入って来るのだ。

小麦は作るには作るが、じぇんじぇん粉に出来ない。ご近所で借りた石臼も、どうもうまく挽けない。
作っちゃあ挽けず、作っちゃあ挽けずがくりかえされて、玄麦溜め込むこと、かれこれ4年。一体いつ粉になるのやら。。しかも今年のヤツは、わしの保存が悪かったらしく、カビ臭い(最悪~)。
一気に全部まき散らすかあ~?

ふんでもって、小麦を収穫したあとのエダマメが順調だった。
なんか知らんが、豆科のあとよりも、小麦やトウモロコシといった、イネ科の野菜のあとがすこぶる調子がいい。なんでや?ウチの畑は、チッ素過多なんだろうか?(やはり牛糞がまだ残っているのだろうか)
ともかく小麦は山ほど余っているので、実験してみようと思う。


それから去年ラフレシアになった白菜の交配したヤツが、また威力を見せ始めた。
おかしなことに、わざわざ種とってキレイに蒔いたところよりも、育ったところでこぼれ落ちたヤツの方が、迫力がある。やまんばが他の畝で蒔いた時期より遅かったくせに、一度芽をだすと成長のスピードがちがった。今はやまんばが蒔いたヤツの3倍はある。

つまり、実生は自分がいつ芽を出すのか心得ているのか?
「あん?。。。。今だ!」
とばかりに、ぼぼぼっと芽をだしたかと思うと、一気にスピードアップするのだ。

しかも最初っから、ムラムラに出始める。人が種まきすると、一カ所にたくさん芽をだすが、実生はポチポチと所々から芽を出す。しかしそれゆえ、間引きがいらない。将来の自分の大きさを知った上で、間合いを取っているかにさえ見える。なんというしたたかさ!

こっ、、、これは連作障害はないことを意味している。
それはまるで、
「連作しまくりましょう~、勝手にこぼれ落ちるままにして、種取りやめましょう~っ」
てなメッセージかあ?

福岡のじっちゃんはこれをやっていたのか。。。?

2013年11月5日火曜日

そのまんま自分




外にあるものは、自分の心の中の現れ。
気に入らない外を変えようとするのは、鏡に映った自分の姿が気に入らないので、鏡の中を変えようとするのと同じことをしている。
鏡に映ったものを変えたいなら、映ってる自分を変えるのだ。

気に入らない頑固なオヤジは自分自身だ。
変えても変えなくてもどっちでも良い。ただそれは自分なのだと解っていることなのだ。そのオヤジのどこがどういう風に頑固なのか探ってみる。すると細かいデテールが見えてくる。それがそっくりそのままあなたの姿だ。

誰かにいたいとこつかれるとむかっとくる。それはどっかで「あたってる」とドキンとするからじゃないか?
すぐ近くにむかっと来る人がいる。それはほれ、そのまんま、あんただよって現してくれてるから、むかっとくるんじゃないか?

そうなると、「あっ、それをやめなきゃいけない!」とおもう。
いけないと思うことを排除しようとするのは、わしらの悪い癖だ。

頑固なオヤジも排除しなきゃいけないと思うし、
頑固なオヤジの自分の部分も排除しなきゃいけないとおもう。
ここがわしらがよけいな労力を使っているポ、イ、ン、ト。

どっちでもいい。
自分の頑固さを変えようとしてもいいし、変えずにそのまんまタンスの上に飾っておくでもいい。

ただ、気がついていることだ。
ああ、ここ、頑固だ。
今、頑固な気分になってる。
ゆずれなくなっている自分がいる。

と、自分の反応につねに気がついていることだ。
ダメだしはいらない。

目の前に展開している世界は、そっくりそのまんま自分の中のあらわれだと、いつも淡々と気がついていることだ。


そしてそれは、いつでもどのようにでも世界は変えられるってことにむすびついている。



自分の居場所って、別に大きくなくてもいいとおもわない?むしろほんのちょこっとした片隅に、ほっこりするところってなあい?そういう場所っていいよってアイディアをくれる本です。