2020年12月4日金曜日

罪の魅力

 


ずっと罪を見てきた。


自分の罪悪感の中でもがいていた。

自分の体への罪から、仕事への罪まで。

小さなことから大きなことまで全てに罪を見ることをしてきた。


それは自分が生きるに値しない生き物だと信じていたから、

生きるに値するには、自分をとことんまで罰しつづけ、

その結果やっと手に入れられる、

つまりここで生きていい権利だと思ってきた。


だが同時に人にも罪を見ていた。

自分に厳しいものは他人にも厳しくなる。


人の罪も見続け、その罪によって私は被害者になる。

それもまた、自分の罪への罰だと受けとっていた。


そしてその罰を受けている自分を哀れんでいた。


罪がゆえに、雨の中を道端に放り出された哀れな乞食だと嘆き、

またそんな姿の自分を愛していた。


これが狂気でなくてなんなのだろう。

私はこうやって自分を蔑み、忌み嫌い、

その苦しさを紛らわすために、

この社会を呪っていた。




コースによって、自分が何をしていたのかを教えられた。

私は罪の魅力にとりつかれていたのだった。

罪の魅力とはすなわち分離の魅力。

自分と他人を分けて見たいという欲求。


それは別の言い方をすれば、人とは違う、特別であろうという意識。



それは他人に罪があると見ようが、自分に罪があると見ようが、

同じことだった。


ここに罪がある

と宣言しているのだ。


だがコースは罪などないと宣言する。

そんなものはもともとなかったのだ。そして今もそれはない。





私は自我がささやく言葉に騙され、

「私に(あなたに)罪がある」と信じてきた。


この罪(問題)さえなくなれば、私は解放される。

私はこの世界で生きていいと言ってもらえるのだ!と。


だがその問題は、解決しても解決してもなくなりはしなかった。

いつまでもそれを発見し続けた。


まだある、まだある、まだ問題も罪悪感もあり続ける、一体どうしたらいいんだ。。。!

と、苦しみの中でもがいている時、

ふと、私は罪を見たがっているんだ!と気がついた。


昨日の話の聖霊の視点に立った瞬間だった。

罪の世界を、罪だけを見てきた私を、外から見たのだった。



その時私は初めて、罪にどれだけ魅了されてきたのかを知る。


自分の身体的問題から、親の問題、他人の問題、社会の問題、、、。

自分が見るあらゆるものの中に、問題という対象を見つけることに忙しくしていたのだ、、、!


あらゆるものとは、物理的に見えているものはもちろん、

自分の思考、それによって立ち現れてくる感情。

全ては対象。対象とは自分の外に見ている現象。


その見えてくるものたちの中に、

常に罪/問題を見つけ、

それを解決することが、

私が解放される唯一の手段だと信じてきたのだ。



だがそれこそが自我が用いる手段だった。

ずっとこの世界に注目させ続けたいのだ。

なぜなら、この世界自体が自我によって作られたものだから。


社会に常に問題が生じるのも、その問題を見つけ、解決するために取り組んでほしいから。

そうやっていつまでもこの世界を維持させ続けることが狙い。


だからブッダは、この世界に注目するなと言った。これは夢でしかない。幻なのだと。



問題に取り組んで、問題を解決した瞬間、私たちは開放感を味わう。

その開放感が喜びにつながるので、私たちはそれを追い求める。


だからこそ、罪を探す。


でもそうじゃなかった。

一瞬の解放による喜びは、自我が与える飴と鞭。

99%の努力に、1%のご褒美をもらえるような、

そんな小さな喜びを得るために努力することではなかった。


この世界には、苦痛を何一つ解決できるものはない。

自我はこう言う。


「探せよ。されど見つけることなかれ」




私は罪を見ることをもうやめようと決めた。


罪や問題に気がつくたびに、今、自分は自我の視点に立っていることに気づき、

立ち止まり、

これを聖霊と共に見たいという意欲をそっと持つ。


問題を解決しようとしている自分に気づき、

「私には何もわからない」と、一歩退き、

聖霊の視点を教えてほしいと頼む。


教えてほしいと頼むと、答えてくれるかどうかは問題ではない。

言葉で帰ってくることは滅多にない。

けれども違う視点が起こり始める。


自我と共に、自我と一緒に考えてきた私が、

別の視点を知りたいと切に願い始めた。




この頃光でものを見るようにしている。

山や高速道路の巨大な柱を光で見る。


それまで重たい感覚だった山やコンクリートの塊である柱が、

急に軽く見える。


それは今まで物理的にものを見ているから、重さを感じていたのだと知った。


自分も兄弟も光で見る。

それが聖霊の見ている視点だと知る。


喜びが満ちてくる。

罪を見ている頃は感じもしなかった喜び。


ただ何もしないでそこにいるだけで、

喜びが溢れてくる。





絵:「秋山」

2020年12月2日水曜日

光りかがやく針葉樹

 


状況が変われば、私は幸せになれると思ってきた。


だけどそうではないことに気づかされる。

状況がどんな状況であろうと、心とは関係ないのだ。




それは、「この状況さえ変わってくれれば、、、、」

という心の葛藤が、

何の変化もないのに、瞬時に平安へと変わる体験をするたびに思う。


話には聞くが、やっぱりそうなのかとおずおずと信じ始めた。




この世界の中の問題の解決は、この世界の中ではできない。


例えば、二次元の平面で生きている生き物は、二次元の世界しか知らない。

そこには点と線しか見えない。それが長くなったり短くなったりするのを見ているだけだ。


しかし三次元の視点から見ると、点は一本の柱で、線は四角や丸と見えているのかもしれない。

二次元では、線が長くなったり短くなったりする理由がわからないが、その平面から脱出し、三次元の視点に立つと、長方形が回転しているから線が長くなったり短くなったりしているからだとわかる。


私たちがこの世界を見ている視点は、まさに二次元の平面を生きている生き物と同じ。

これは四次元とか五次元の話ではなく、単なるたとえ話だけど。





この世界の問題の解決はこの世界の中で見つけることではできない。

一見解決したかに見えようと、やがてそれもまた別の問題が現れてくる。


私はこれを聖霊と共にみようとする。

聖霊の視点とは、たとえて言えば、二次元を超えたところから見ている視点。


私たちが日頃、平面の中で自我と共に考え、翻弄され、その世界しかないと思っている自我目線の視点を、全く違うところから導いてくれる。

線が伸び縮みしているのは、聖霊の視点から見れば長方形が回転しているからなのだと。



平面の上で自分がいくら考えても考えても考えつかなくて、ほとほと疲れ切った時、

そもそもそこで問題は解決されないのだと気付いた。

今思えばそれが聖霊の視点であったのだろう。

そこに答えなど見つからなかった。


問題は常に自我の世界の中にあり、その答えは聖霊の中にある。




私はイメージで光の中に入り、

その真っ白な眩しい光の中に、一本の美しい光り輝く針葉樹を見る。

私はその前にひざまずく。


光の中で心が平安になった時、私を苦しくさせている観念に気づく。


その観念を持っている限り、私から苦しみは消えないことを知る。


私はその観念や言葉を、その木の前に差し出す。

「私にはこの言葉はもう必要ありません。

聖霊さん、あなたに捧げます。取り消してください」


捧げられた言葉は、光の粒になって浮かび上がり、

静かに上昇して光の中に消えていった。


私がイメージする光など、本当の光とは程遠いのだろうけれど、

その光により私は理解を深めることができていく。


きょうだいを自分と全くひとしく同一であると、

光の中で思い出していくのだ。




絵:ケヤキの道

2020年11月20日金曜日

愛の交流

 


先日、マクドナルドに行った。


大きなガラス越しに、ママチャリに乗っけられた赤ちゃんと目があった。

ダンナが手を振ると、それに答えた。

私も手を振ったら、私にも答えてくれた。


「あっ!」と思った。


これだ!

と、心が震えた。




最近よく遊びに行く近所の神社。

そこに行くと、私は自分のアイデンティティが失われる。

誰でもなくなってしまうのだ。


その時、自分がいかにイラストレーターであることにすがっていたのかを知る。


人は肩書きにすがる。

自分は何者であるかという自負と共に生きる。いわばそれを拠り所にして威厳を保つのだ。


それがこの場所に来ると、それが味わえない。

その肩書きを重要視してもらえないのだ。威厳は保てない。

むしろなんでもないものになる(笑)。


それはそこの神主さんや宮司さんが元教師であるからなのかもしれない。

誰も特別視しない。

みんな平等に扱うという、先生としての正しい仕事を全うされてきた人たちだからなのだろう。


誰でもなくなった私は、そこに行く意味があるのだろうか?という疑問がありつつも、

「これは私に何を教えてくれようとしているのか?

いったい私が何者でもなくなったら、何が起こるのだろう?」

という密かな実験でもあった。





ある時、いつものようにご神事が終わり、直会の準備を粛々としていると、

「はい!つくしちゃん、お餅!」

と、いきなり声をかけられた。


目の前には、ご神事で奉納された鏡餅を切り分けホットプレートで焼いた磯辺餅。


その時の私は、まるで小学生のような喜びに満ちた。

だが大好きなお餅が手渡されたことの喜びではなかった。


誰でもなくなった私が、ついに見つけられたような、

真っ暗な中で、ついに光に照らされたような、

そんな喜びだったのだ。


その無上の喜びに、自分でもいったい何が起こったのかわからなかった。





それが赤ちゃんとのあの交流で一気に解けた。


お互いがお互いを見つけあって、確認しあって、

「あっ、いるね!」

「うん!君もいるね!ああうれしい!」

「ああうれしい!」

と、喜び合っていた瞬間だった。


彼女に見つけてもらった私は、彼女と互いの存在を確認しあっていた。


そこには何の肩書もない。

互いが互いの存在をただ喜び合って、それを分かち合う。



その出来事は、今は遠くに引っ越していった、耳の聞こえない少年との、

あの出会いの時間をも思い起こさせてくれた。


まさにあの時もただお互いの存在を確かめ合って、

ただそこにいることに喜び合っていた。

そこには何の言葉もいらなかった。



神の子が、神と出会う。

互いが互いを喜び合う。


その喜びは拡張して無限に広がっていく。


これを愛と呼ばずして、何と呼ぶのだろう。





2020年11月19日木曜日

光で見る その2

 

自然を光で見る実験をしたのち、今度は人を光で見てみる。


目の前のダンナを見てみる。。。くっ、、、できない。。。

力尽くで見てみる。。。。

うー。。全然できない。。。



そうなのだ。

胸のあたりに光をイメージして。。。とやるが、

目の前のダンナの顔に意識が向けられて、光で見るどころの騒ぎではない。


しょうがないから目をつぶってイメージしてみる。

目の前にいないと、ちょっとだけ光でイメージできたw



それにしても、木や山を光で見るのと、どうしてこうも違うのだろう。。。?


抵抗している。

心のどっかで「お前なんか、光で見てやるもんか」

という、ダンナへの大きな抵抗に気づく。


光で見るとは神聖なことなのかもしれない。

日頃いろんな思いがあるダンナを、そんな綺麗なもんの中にいれてやりたくねえ!

という思いがあったのだ。


その証拠に、遠くで道を歩いている関係ない人には光で見ることができる。

でも目の前に来ると、「うっ。。」と、微妙に抵抗している。


私の中にある自然への思いと、人間への思いの違いを自覚させてもらった。






その日もコタツを挟んで、ダンナを目の前に光実験に悪戦苦闘していた時、

不意に彼の胸のあたりにぽっかり穴が空いて、その向こうから光が差しているというビジョンを見た。

すると彼の後ろから後光が見えた。


え?

この映像どっかでみたことが。。。


背中に光を背負った観音様の仏像。

法隆寺で見た、ひょろっとスレンダーな、私の大好きな百済観音を思い出した。


そうだ。

仏教彫刻の背中に後光を背負ったあのお姿は、こういうことだったのか。


私たちは、目の前の人の形を捉えている。

でもそれは肉眼で捉えているからのこと。

本当は私たちは光そのものなのではないか。

それを霊視した人たちがいて、それを彫刻したのだとしたら。。。



光を見るという実験をすると、だんだんもう一つの世界がわかってくる。

目の前に見えている世界だけが世界じゃないということを。


これは仮の世界だ。仮想現実だ。

私が私という肉体を持った気になって、

その肉眼で、私と似たような形の生き物を見ているのだ。



目の前の母親がハリボテに見えていた、小さい頃の光景を思い出した。

それは事実を見ていたのかもしれない。

本当は母の後ろに光があるのだが、それを遮るように、私がハリボテの母親像を作った。

それは自我としてのわたしの恐れが作り上げた影だった。

その影は今もこの世界に投影されている。


だが光をどんどん思い出していくうちに、

それは自分が作り上げた煙幕だということに気づき始める。



ダンナに光を、お山に光を見る。


それは延長されて私も光に包まれ、

互いの境界線は消え去り、


全く一つの眩いばかりの光になった。










2020年11月17日火曜日

光で見る

 


最近実験をしている。

目の前に広がっている風景を全部光で見るのだ。



目の前のパソコンやライト、自分の手。

ぜーんぶ光としてみる。

そうはいっても肉眼で実物を見ているから、単なるイメージでしかない。


それでも一瞬だけパッと見える。

面白いので散歩の度に目の前のものを光で見る。




光り輝く道、光る杉の木、キラキラする雑草たち。。。

よく見てみると、光の粒子がうごめいている。


かすかな淡い色の違う丸い粒子が混ざりあって、樹々と葉っぱの間に境がない。

お互いがお互いの粒子を絡ませながら、ゆらゆらとゆっくりと空に上がっていく。



ハッと我に帰る。


いつもの風景。


肉眼では、杉の木は杉の木として、葉っぱは葉っぱとして、互いに独立して見えている。



あらためて光で見ると、木々どころか、道も山も草もみんな光で一つになっていく。。。



「ああ、そうか。もともと彼らは光なんだ、、」

と気づく。


光であったものに、私は肉眼で、そこに木や山を見ているのだ。





そうすると肉眼というものが怪しくなってくる。

木や山があるから、それを肉眼で捉えた、と思っているが、

この肉眼だから、それを木や山という風に見ているのではないかと。



笑えてきた。

物理学がひっくり返される。

物質がある大前提で考えられているものが、

「この肉眼が見ているからそこにあるように見える」だけだとしたら、、、?





今度は人を光で見てみる。

自分を光で見ようとした時、じゃあ、この体も光だとすれば、この肉眼さえも光だということになる。。。


物質界がますます怪しくなってくるw




私たちはこの空間という物質界に、

一人の人間の形をした生き物として生まれてきたと思っているが、

そもそもこの物質界という空間さえ捏造されたもので、


そこに一人の人間として生まれたということさえ、

捏造されたものだったとしたら。。。



私たちは大きな勘違いの考えを与えられ、

洗脳させられて、


生まれては死んでいくという錯覚を見ているだけなのかもしれない。




絵/余韻