2026年4月19日日曜日

私は喜びである

「高尾の春」

 

ある夜。

いつものように庭に出て地面に素足をつけてボーッとする。


心は喜びを探していた。

暗闇の中、かすかに見える木々たちを眺めながら、

待てよ。外に喜びを見つける必要なんかないんじゃないかと思った。


外にある喜びはすぐ消えてなくなる。

それをいつまでも追い求めることって、いる?


ふと別の見方がやってきた。


喜びは今ここにないか?


何もしていなくても、

どこかに何かを見つけなくても

喜びは今、すでにここにあるんじゃないか?


そう思った時、

これが、喜びなんじゃないか。。。?


私はここにいる。


それこそが喜びなんじゃないか?


「存在しているということに喜びがある」


そんな言葉が頭に浮かんだ。


私=喜び

私=愛


喜びが歩く

愛が歩く


なんということだ。

私という存在じたいが喜びだったんだ!


喜びが外にあるわけでもなく、
手に入れるものでもなく、
その中に入るのでもなく、
私自身が喜びだと。


心がブワーッと広がる。




そんなふうに思ったことなかった。

私という厄介な存在、

いるだけで問題児、

厄介なカラダ、

仕事できない無能な存在、

貧乏な私、

歩く罪女、等々。

自分の嫌なこと言わせたら宇宙一じゃないか、、、

というほどのこの私が。


。。。


世界が遠くにあった。

世界情勢も最近の事件も遠くに。

そしてカラダも遠くに。


最近時々やってくるこの感覚。

世界がうすらボンヤリしてて気にならない。

自分の目下の問題も、ネットの向こうの問題も、

私とは関係ない絵空事になっている。


それよりもこの静けさと、

どこからか湧き上がってくるウキウキ感。



コースはいう。


「あなたの使命は実に簡単なものである。

あなたは自分が自我ではないと実証する生き方をするようにと頼まれている」


「癒すとは幸福にすることである。

私は、あなたに自分自身を喜ばせる機会が何度あったか、

そのうち何度、拒否したか考えてみるようにと言ったことがある。

これは自分自身を癒すのを拒否したのはあなただと言っているにひとしい。

あなたにふさわしい光は喜びの光そのもの。

光り輝く姿は悲しみとは結びつかない。

喜びはそれを進んで分かち合いたいと思う融和した気持ちを呼び起こし、

心が自然にはずんで一つになって応じるようにさせる。」


「聖霊は喜びの霊である」


今はコースのいう言葉の意味が

さらに深く理解できるようになってきた。


「思い出すように」というのは、このことだったのか。




こういう体験はやってきては消えていく。

また元の感覚に戻っている。

それでもその時の記憶は残る。


人の啓示体験は劇的なものなのだろうが、私の体験はちっちゃい。

ちょろっとやってきては消え、またちょろっとやってきては消えていく。

だけどそのおかげで浮き足立てない(笑)。


でもそれがヒントになってそっちの方向だと教えてくれる。




ずっと自我のいうことを真に受けてきた。

心の中で聞こえる声を「正しい」と信じてきた。

今はその声が苦悩の元凶だとわかる。


私という存在を否定することが自我の生きがいだったのだ。


だからこそ「あなたは自分が自我ではないと実証する生き方」を頼まれている。








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