2023年10月21日土曜日

聖霊がこっちを向いた


 

二泊三日の高知の旅に出た。


目的は、施設にいる母に会いに行くこと。

でもまだ直接は会えない。

外と内の窓越しに、電話で話すだけだ。


去年は9月、めちゃくちゃ暑い中で母とあったので、涼しい時に行くと決めて10月後半にした。おかげでとても快適な外での面会だった。金木犀がいたるところで香って心を和ませてくれた。


母も元気そうだった。でも長々と話する感じではなく、せいぜい長くて15分ぐらい喋って帰ってくる。3日間毎日ほんのちょっとだけ会う。行くたびお土産のお菓子をいっぱい持っていく。そんな母とのやりとり。

相変わらず施設のイベントには一切参加せず、食事とお風呂ぐらいにしか部屋の外に出ない。テレビとクラッシックとお花。それが彼女の一日。

そんな母を、私は彼女らしいと笑った。




高知に来て、私はあることをし始めた。

し始めたというと、まるで自分がやり始めたかのように聞こえるが、そうではなく、

自然にそうなり始めた。

それは聖霊の視点で自分を見るようになったのだ。


ふとしたことで心が苦しくなると、

聖霊がこの今の私を見るとどう見るのだろう?と、

聖霊の視線が自分に向いた。

それが勝手に起こった。


それまでは兄弟を聖霊とともに見るということを意識的にやっていた。

兄弟の罪を見ない、愛の視点で見るというものだ。

高知に帰ってきて、それまで外に向けていた視線がくるっとこっちに向いた。


それはとても優しい視線だった。

どんなことも「大丈夫。あなたに罪はないよ」

と語りかけてくれているような、大きな優しさで私を包んでくれる。

その途端、私は安堵の中にいた。


施設にいる母を思うと、苦しくなる。

しかしそれを聖霊の視点で見る。

すると自分の罪は消えていく。

そんなものは最初っからないよ。

そんなものつかむ必要もないよと教えてくれる。


何をしても、何を考えても、聖霊はこちらを向いて微笑んでくれた。

心が癒されていく。

世界はどんどん優しくなっていく。

兄弟はますます優しくなっていく。




事実は実にシンプルだった。

どこに視点を置くか。

地獄と天国はこんなにもシンプルに分かれていたのだ。


そして私の心が今までどっちに向いていたかをはっきりと自覚させてくれた。


ずっと自分を責めていたのは自我の視点だった。

理屈ではわかっていたのに、それを止めることができなかった。

罪はないと言われても、そんな風に思えなかった。

それを信じることができなかった。


それが「自分を責める必要がない」と、

体験を通して教えてもらい始める。


苦しみの視点で世界を見ると、この世界は実に説得力のある重たく硬い世界。

しかし光の視点で見ると、この世界は薄く軽くなっていく。




絵:「里の秋」





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