2019年5月25日土曜日

業者さんに持っていってもらう




夜中に目が覚めてトイレにいくたびに、ふと頭をよぎる将来への不安。

「このままでいいんだろうか。。。このままこの生活を続けていていいんだろうか。。。なにかしなければいけないんじゃないだろうか。。。」

朝目が覚めたとたん、また心は言いはじめる。
「このままじゃいけない。何か手だてを考えなければ!」

ずっとこう考えてきた。毎夜毎夜、毎朝毎朝。。。
そしてふと。。。



『ひょっとして。この考えが私を苦しめているんじゃないのか?』
はじめてそう思った。


この考えに後押しされて、今までどれだけやってきたか。
自分が思いつくかぎりのことをやりつくした。地球の裏側にまで飛んでいってやってきた。それがいまはどうだ。このありさまだ。

するとまた心が言う。
「それがお前がやってきたことの結果だ。その程度の考えだからだめなんだ。それじゃ足りないんだ。もっともっと努力をして、もっともっと苦しんで、もっともっと手をつくす必要があるんだ!」



「そっ。。。そうだ。もっともっと考えなければ!
って。ちょっとまてよ。
そう言ってるあんた、だれ?」



はじめてその声を自分の声として聴いてない私がいた。
心の声と自己同一化してない瞬間だった。

へんなたとえだけど、二人羽織の後ろのひとに気がつく。そんな感じ。

そのときその声がどれだけ自分を怖れの池に突き落としてきたか、
どれだけ焦りの火花で走りまくってきたか、
どれだけ悲しみの森で迷いまくってきたかに気づく。

「もういらない。こんな考え、もう私には必要ない!!!」
こびりついていたこの考え、無意識に「利用価値がある」と思って握りしめていたこの考えが、心底いらない!とおもえた。

「もういりません!神さま、聖霊さま、捨てちゃってください!取り消してください!」


自分では消せないし、捨てられないのは、これまで心を見る訓練をしているあいだにわかってきた。
最初は考えを浄化することによって消せると思ってきた。
次にそれを直視することで消えると思ってきた。

だが直視しても浄化しても、そこに限界があるのに気づいた。
自分では何もできないことに。




いらなくなった考えはゴミみたいなもんだ。どうにかしてそれを捨てようと、隣の家に持っていってもおこられる。山に持っていっても不法投棄。
そのゴミはなぜかまた自分のところに帰ってくる。

ゴミは業者さんという別次元の存在に頼むしかないのだ。
自分の生活範囲内で消せるもんじゃない。
いらない観念は自我の次元ではなく、聖霊さんの次元で取り消してもらうしかないのであった。

だから「お願い!これ、持っていって、消しちゃってください!」って。
完全他力本願である(笑)。


ふしぎなことに、業者さんに頼んでも、すぐには来てもらえなかったりする。
「頼んだよね?消えてるよね?」と、結果を見てもそうは問屋が卸さない。
火曜日は可燃ゴミ、水曜日は不燃ゴミ、、、というように、業者さんのご都合がある。
それはすぐに消える時もあれば、忘れたころに「あれ?」って消えてる場合もある。
聖霊さん/業者さんのご都合は、こちらからは預かり知らぬところなのだ。


そうしてあるときトイレにたってふと気づく。
「あれ?そういえばあの考え。。。。出て来んよね。。。」

苦しみがひとつ消えたことを知る瞬間であった。


家の中のゴミは、「いらないから、全部持っていってください!」
と言っても持っていってはくれない。

ひとつひとつ意識的に「これ、いらないよなあ~」と気づき、
自分でそれを持ち出して、ビニール袋に入れて、玄関前に置く。
それがマナーだ。

「おねがいしま~~す」
と、敬意を込めておねがいをする。



そうやってすこしずつ家の中(心の中)に、
ゴミ(雑音)が消え、
静けさと平安が広がっていく。

絵/サントリーニ島

0 件のコメント: