やまんばはずーーーーーーーーーっと、自分をだれかとくらべ、自分を否定してきた。
あれがいけないこれがいけない。
ああするべき、こうするべき。
いい人とはこうあるべきで、であるなら、これは悪いことだ。
だからわたしはまちがっている。いつもまちがっている。つねにじぶんをみはってないとまちがってしまう。なぜならわたしはつねにまちがいを犯すニンゲンなのだから。。と。
うまれてきたとき、すでにわたしにはいしきがあった。かんじるものやかんがえることがあった。だけどわたしの前には、この世ルールを「すでに知っている先輩」がいて、その先輩に、「この世で生きるにはこういうルールがあるのだ」と教えられる。
「いや、そうじゃないきがする。。。」
といえば、
「ちがう!これはこうなのだ!」
と、おしえられ、試され、比較されてきた。
これは、自分というものをつねに誰かと比べられ、誰かが考えたルールで試され、それによって優劣や順位というありがためいわくな栄誉をもらいうけることになる。
するとやまんばは、自分自身でいることが、まちがったことであり、劣ることであると信じ込んだ。
このインプットは約50年間有効に働いてくれていた。
だけど、これはほんとうの自分を生きることなのか?とおもいはじめる。いやほんとうは、ずっと前から「なんかちがう」とおもっていた。だけどメイドイン教育のたまもので、
「ちがうだろ、常識とはこうなのだ。そこから外れたら、あとは『死』あるのみ」
と、軌道修正(?)をしてきた。そのおかげで大した悪さもせずに生きてこれたことも事実だ。
だけど自分への否定は、しょうじき生きづらくなっている。社会に対しては別に態度を変えるわけではない。いきなりご近所をあわてさせる、わがままやまんばに突入するよーな青二才でもない。
だが日常的にこころのなかにあふれでる「ダメダメ攻撃」に、
「おい、ちょっとまてよ。この攻撃はどっからくるんだ?」
「おい、おい、おい、なんでそこまで自分をいじめる?」とおもいはじめた。
なんで自分を否定しなくちゃいけないんだろう。
「それは自己肯定感が足りないのよ」
「あ、そうか。じゃあ、自分を肯定すればいいんだ!」
しかし。自分を肯定するのは簡単なもんじゃなかった。
自分をそのまんま肯定するとは、とてつもないことだった。
最近、ある人が書いた本を読んだ。
その人はうまれたときから、まったく自分自身を否定されなかった。
その人はうまれたときから、まったく自分自身を否定されなかった。
カラダがまったく動かない、声も出せない、息もうまくできない。そんな人が、その存在をまったく否定されず、ストレートに自分自身を表現すると、ここまでの人物になるのかという現実を見せてもらった。
やまんばは感動した。口があんぐり開いちゃって、これはとんでもないものをおしえてもらったとおもった。ここにものすごいヒントがある。ニンゲンは自分を否定されないまま生きると、もっとも自分らしいスーパー自分になるのだ。
多分この世の天才と言われる人々は、そういう部分があったはずだ。
やまんばは、今まで自分を否定してきた世界から、自分を肯定する世界へいこうと思う。
もちろんマシーンのように自分を否定する習慣は、そうおいそれとは消えないだろう。
だからまだ肯定世界の入り口のことろにたっているだけだ。
それは自分への否定観念につねに気がついている状態に入ることになるだろう。
だけどまだ知らない自分をきっと見つけはじめるにちがいない。
2 件のコメント:
私も大したことない人間だけど、逆に言うと、大したことある人間には何人も会ったこと無い。
つまりは、その差はほとんど無い、多分身長で言えば145-200cmが誤差ってな感じ?
わたしも人のこと言えないけど、そうかもしれない。
それってさあ、、、やっぱしメイドイン教育のたまものかもね。。。みんな横並びになっちゃう教え。。。。
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