先日、生まれてきた時のことを覚えているか?と3才の男の子に聞いた件であるが、よく考えてみれば一番だいじなことを忘れていた。
彼は、自分が生まれてきた時のことを覚えている、とゆーことは、生まれる前を知っているとゆーことだ。
わしらは自分はだれや?と思う時、自分とはこの肉体だ、とおもう。風邪引くのも走るのも怒るのも、この肉体からやってくる。この肉体が感じてこの肉体が動く。なので、つい、わしはこの肉体や、とおもう。
しかし彼は自分を肉体だとは思っていない。
となりの部屋に行き、いわば私たちから姿を消し、そして「ばあ~!」といって、私たちの前に誕生した瞬間を見せたのだ。
それは私たちから見えないところにいる、と言うことまで説明しているではないか。
さらにいうなら「妹と一緒にやってきた」と言うことは、あきらかに肉体を持っていない時に、すでに彼は意識を持って存在していて、妹と申し合わせていたと言うことだ。
もし彼が自分が肉体やと思っていたなら、いったいいつから意識を持つ事になるのか。おなかから出てきた時か?それとも精子が卵子に入った時か?それとも細胞分裂始めた時か?それともおかーさんが、つわりがはじまった時か?
だけど彼はそのどれでもない。その前から自分がいることを知っている。肉体は借り物だと言うことを自覚している。
やまんばも昔、なかなかこの肉体をうまく使いこなせなくて、しばらくもがいていた。しかしあるときぴったりと収まって、
「ああ、やっと全部入った。。」
と自覚した瞬間があった。
わしらはいったい何者なんだろう。
よく人間は肉体と魂だという。しかしこの魂っていうのは、どーも抹香臭い。しかも「たましい」っていっときゃあ、なんとかなる、みたいなざっくり感がある。
わしはこれを「意識」と呼びたい。
するととたんにバクゼンとするやろ?夜中にお墓のまわりをうろうろする青白いしっぽがついた光のよーな物質的なものではない、抽象感満載なもの。とらえどころがなくて、そのまんま宇宙に広がっていきそーなもの。
きっとわしらはそんな存在なのだ。それはひとつの意識ともいえるし、個々の意識ともいえるし、いわばひとつでも億兆個でも、いくらでも変幻自在なもの。
その意識がこの物質地球に降りてきて、人間ゲームを楽しんでいるのだ。
いったい何を楽しんでいるんだろう。
それは『感情体験』をしているようなのだ。
物質や時間や言葉を持つことによって、大いなる感情の体験を創造しているのだ。善悪の二元論もすべて言葉から来ている。感情はその二元論によっておおいに触発される。そのわしらの感情が宇宙に広がって、宇宙をますます豊かにしているのだ。
それは『感情体験』をしているようなのだ。
物質や時間や言葉を持つことによって、大いなる感情の体験を創造しているのだ。善悪の二元論もすべて言葉から来ている。感情はその二元論によっておおいに触発される。そのわしらの感情が宇宙に広がって、宇宙をますます豊かにしているのだ。
しかしその感情工場で生きる人間たちは、どこかでうんざりしている。
「もう、こんな人生イヤだ!」って。
3才のボクは、だんだん生まれてきた時のことを忘れるのだろうか。そしていつのまにか自分とはこの肉体だと思うのだろうか。
そして他の大人たちと同じように、
「ぼくは好きでこんな親のところに生まれてきたんじゃない!」
と叫ぶのだろうか。
生まれてきた時のことを話す、彼のあのうれしそうな顔は何を意味するのだろうか。
私たちもああやってうれしそうに生まれてきたんじゃなかったんだろうか。
すべては選択だと言われている。
どんな感情になるのもどんな人生にするのも。それは生まれてくるという選択をした時から、選択ははじまっている。私たちは圧倒的にすべてに対して『選択できる』と言う自由が与えられている。
あなたはどの感情体験を選択する?
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