やまんばは今心の旅をしている。
自分の心の中が、今何を感じて、何を考えているか。
自分の心の中を見ることってなかなかできない。自分の心のなかって、得体が知れなくて、なにか恐ろしい感じがする。
それは「この感情があってはいけない」という善悪の判断があるからのようだ。
私たちは親からいわれたり、絵本を見たり、本を読んだり、映画の主人公の行動を見て、怒っちゃいけない、泣いちゃいけない、嫉妬しちゃいけない、怖がっちゃいけない、、、って、学んでこなかっただろうか。
だからかあ~っとなった時、「あ、自分おこってる。いけない!」と一瞬自分の心を見て、いけないことだと判断し、それをどうにか回避することをしていないだろうか。
回避とはたとえば、鼻歌歌ってみたり、別のこと考えてみたり、仕事に没頭してみたり、歩いてみたり、スマホ見たり、メールのチェックしたり、次の休みの日に何をしようかワクワクを探したり。それか、今度はかあ~っとなった相手のことを心で罵倒してみたり、いいわけしてみたり、相手の悪いところを並べ立てたり。そのうち話は別のところに展開して、いつのまにかかあ~っとなってた自分を忘れている。
一番だいじなことがある。
「あなたはどうしてそれに対して怒るの?」
どんな時怒る?
その今の怒りは前にもあった?
ひょっとしたら、いつも同じところで怒ってない?
その怒りをずっと同じことで怒っていたいですか?
ほんとうの怒りの原因は「相手」にあるんじゃないんだ。
発端となっているのは、その相手がする「行為」のほうだ。
その行為に許せない自分がいるってことだ。
でもその行為をやめさせようとしてもたいてい失敗に終わる。たとえ一時的にやめさせても、また繰り返すか、別の人が同じことをする。そんなことってない?
そんな徒労に終わる苦心を、別の方向に変えてみるってのが、心の旅だ。
旅の出発点は、自分の感情がぶるっと震えた時。
そこが旅の始まり。
「あ、あたしおこってる。。」
と感じた時は、きっとあなたは駅前にいる。
そこには「わたし駅」という駅名が書かれてある。そこから旅に出るのも
「いやいや、またにしよう」
と、くるっと駅に背を向けて、駅前の商店街の方においしそうなものを探しに行き回避するのもあなたの自由。
あなたは思い切って改札を入る。
駅員さんがにっこりする。
「ようこそ心の旅へ」
ホームはがらんとしててあなたしかいない。
さっき感じた怒りを逃げずにそのまま味わう。怒っている自分を怒っているまま、からだ全身で味わう。腕がぴりぴりする。足ががくがくする。振動に心が揺さぶられる。気がつくと電車に揺られている。電車はどんどん加速し始める。全身で電車の振動を味わう。あなたは自分を怒らせた相手のことなどもう忘れている。怒りは凄まじいスピードで走るエネルギーの固まりだ。そのエネルギーに身をゆだねてみよう。だんだん楽しくなる。もっと、もっと、もっと!
ぱたっと、いきなり振動が消える。
え?
車掌さんがいう。
「着きましたよ」
気がつくと電車は止まっている。
駅の改札で駅員さんに
「おつかれさまでした~」とにっこりされる。
いったいどこに着いたんだろう?と
駅をでて、ふり返る。
「わたし駅」と書かれてある。
なんだ、さっきの駅じゃないか!
だけどなんかさっきと空気がちがう。さっきまであった怒りはどこかに消えている。駅前の商店街からおいしそうなコロッケの匂いがする。
今日の晩ご飯はコロッケだ。
ルンルンしながら家路に向かう。。。
心の旅はどう?
ここからはじまる。私たちはすべてを「味わう」ためにここにいる。
さっきの怒りはひとつ旅をするごとに消えて行く。怒りは消化されると消えるようだ。消化しない限り、えんえんとその怒りはあなたにまとわりつく。何度も何度もそれを消化しろと促してくるのだ。それは怒りだけでなく、すべての感情について。
さっきの怒りはひとつ旅をするごとに消えて行く。怒りは消化されると消えるようだ。消化しない限り、えんえんとその怒りはあなたにまとわりつく。何度も何度もそれを消化しろと促してくるのだ。それは怒りだけでなく、すべての感情について。
電車はやがてどうして怒るのかを教えてくれる旅にも連れて行ってくれる。
なんで人生がくるしいのか、それをやめることはできるのか。
それもやがて知るだろう。
この世の秘密を教えてくれる「わたし駅」。
すべての答えは自分の中にある。
自分の感情を怖がらないで、抵抗しないで全身で受け取れば、あなたはもう自分の旅にでている。
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