人は何かになろうとする。
そこにいて、ぼーっとしていると、
「こらあ、なにぼーっとしている!」
といわれた経験がある人は、そのショックが人生の後々まで尾を引く。
なにもしないでいることは、いけないことだとインプットする。
今ここにいて、あるがままでいることは、いけないことだと心底思っている。
だからつねに何かをしていようとする。
が、あまりに無意識になっているので本人はそれに気がつかない。
本屋さんにいって、成功本をみつける。
心が刺激される。そのままではいけないとおもっている人は、その成功者の姿を見て、「将来はああなりたい」とその方法論の成功者を目標にする。
ここに二つの利点がある(ホントに利点かどうかは知らないが)。
1:その本の通りにやると、あの成功者のようになることを保証される(と、おもいこむ)。
2:なにかをやっていると、怒られなくてすむ(いったいだれにやねん)。
だからあらゆる方法論が存在するのだ。これじゃなきゃあれ。あれじゃなきゃそれ。飽くなき戦いである(だれと戦ってんのや)。
石けんなし生活には、方法論がない。
単に石けんを使わないというだけだ。
だが人はつねになにかをしようとするので、これは非常に物足りない。
方法論とは、どうもプラスすること(とおもわれている)のようだ。
今ある自分のスタイルに、プラス何かを足す事によって、あの成功者のようになれると思う。しかし石けんなし生活はプラスするものが何もないのだ!手応えがないじゃないか!
とくにシャップーなしはけっこうハードルが高いので、そこに何かを足そうとしたくなる。
どっちでもいいのである。
いろいろやってみるといーのであーる。
だけど、問題はそこじゃなくて、なにかをプラスしようとする、足さないではいられない、心の切迫感のほうだ。起きてくる出来事に一喜一憂して、抵抗して、嘆いて、バタバタして、なんとか今ある状況を止めさせようとする、その意識だ。
人は「プラス思考」になれているけど、なにもしないという「マイナス思考(引くって意味ね)」には、全くなれていない!
それはちっちゃいとき、とーちゃんに怒られたからかえ?
「こらあーっ、ぼーっとするなーっ!」って、せんせーに言われたからかえ?
クラスのみんなに笑われて、はずかしーおもいをしたからかえ?
「ゆだねる」とは誰もが使う言葉で、「今を生きる」とか「あるがまま」というのも誰もがいう言葉だ。
だけどそれを実行するのは、とってええええええええ~も、むつかしいようだ。
あの、子供時代。ぼーっとしていた瞬間は、今を生きていたんじゃないだろうか。
目の前に広がる自然の美しさや雲の流れや光の暖かさを、肌や心で体験していたんじゃないだろうか。
何かをしているとその事を忘れてしまう。あのおこったとーちゃんや、せんせーも、きっとその事を忘れていただけだ。
ニンゲン世界がこんなにつらいのは、あの瞬間を忘れちゃっただけなんじゃないだろうか。
みんな、あの子供時代の、あのすべてを体感していた頃があったんだ。
ただそれを思い出すだけでいいんじゃないだろうか。
ただそれを思い出すだけでいいんじゃないだろうか。
カラダも動かさず、心も動かさず、ただそこにいる瞬間を。
2 件のコメント:
ボーっとするの好きでした(笑)!!
でしょー!
もういいんです。あくせくなにかをしないといけないなんてゆーのは、卒業です。
いい大人が、道ばたでぼーっとする。
おひさんをみて、草花を見て、それと一体化する。
これからはこういうんだ。
「こらあ〜っ、なにしてる!なんにもせんと、ぼーっとしてろ!」
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