「おとうさんにねえ、がんが見つかったがあよ」
先日、電話があった。
急遽手術をすることになった。
やまんばは常日頃、今の医療のあり方に疑問を抱いていたので、ありったけの本を買いあさった。なんとかしてがん治療を別の方法で克服する方法はないかと探った。がんは摘出するとそれが起爆剤になり転移も増えること、漢方薬で治った人のこと、手術は年老いたからだに相当の負担が来るし、その後の抗がん剤治療も大変な治療になることも、そのまま放置して一緒に付き合う方法も、色々説得してみた。
だが本人は、えらいお医者さまに最新医療を施してもらう方を選んだ。
「からだに悪いもんがあるがよ。それをとらんでどーする!」
考えてみたら、父は警官だった。警察官は「犯罪は見逃すことはできない」のだ。ある日突然血液の数値が上がって「あれ?おかしい」という事になって調べたら見つかった。だが、からだには何の自覚症状もない。だけど「見つかってしまった」のだ。信号無視してもそこに警官がいなければ検挙されない。だが、信号無視した時に、そこに警官がいれば検挙される。知ったか、知らないかの違いなのだ。知ってしまった以上、見てしまった以上、それを検挙しなければいけないのだ。だから、がんという悪党も、検挙しなければいけないのだ。
はたしてがんは悪党なのだろうか。
ニンゲンの細胞はつねに変化している。聞く所によると、がんはできたり消えたりするらしい。いまだにどうしてできるのかも、なぜ突然消えたりするのかも分らないようだ。だから悪なのか?神出鬼没で意味が分からない。だからわるいものなのだろうか。
ほんとは、ニンゲンにとってがんは意味が分らないから「悪」なのではないのか?
得体が知れなくて、どう対処していいか分らないから、つまるところ、「怖い」から「悪党」なんじゃないのか?
仕事の合間に高知に戻った。
空港から直接病院に向かうと、入り口に父がいた。心なしか小さく見えた。おかしな話である。それまで元気だった人が、自覚症状もないのに、ひとりの「権威を持った」人の一言で、一気に病人化する。医者の言葉は「神のおつげ」である。
1時に先生からの説明があると言うことであったが、実際主治医の先生に直接話が聞けたのは4時であった。それまで延々と、いろんな人々が入れ替わり立ち替わり父の病室にやってきて、アレコレの説明を聞く。
この部屋の使い方、このフロアにあるいろんな施設、病院で買ったカードの使い方、という何気ない説明から、どんどん個人的な話に移っていく。看護士さん、麻酔科の先生、ヤクザ医師(ちがーう!薬剤師)。
父は耳も遠くない、薬へのアレルギーもない、歯も全部自分モチ、歩行もオッケー。だが、ひとつだけ問題があった。薬をたくさん飲んでいた。その薬は何のためにいつ頃、どれだけ、ということを、看護士さん、麻酔科の先生、薬剤師さんから、こと細かく聞かれた。だからいちいち全員に全部初めっから説明しなきゃならなかった。薬剤師さんはポソッと言った。
「えらい薬をたくさん飲んでておいでですねえ。。。」
外科担当医の先生は、茶髪のちょっとふっくらした男前の先生だった。年の頃は40前か?サーフィンでもやっていそうな雰囲気。体力ありそうだ。
「ほら。ここ。これが、がんです」
小部屋におかれたコンピューターに映し出されたMRIの映像。でっかい癌がうつっていた。
それから先生はとうとうと説明を始めた。どれだけ大変な手術か。それによってどういう事が起こりうるのか。
「このばあい、こうなる怖れがあります」
「するとどうなるんですか?」と私。
「はい。死にます」
「で、それとまた、こうなる怖れもあります」と先生。
「するとどうなるんですか?」と私。
「はい。そのばあいも死にます」
昔あったよなあ。
がんの告知。なんて言葉。あれもう死語になったんかいな。家族には本当のことを知らせて、本人には
「まあ、ちょっとした病気よね。すぐなおらあね。ほっほっほ」と。
そんなゆったりとした時代はどこへいったんかいなあ。
全てズバズバ言う。本人の目の前で、ぜーんぶの可能性を言う。その日のうちに「死ぬ」という言葉はいったい何度、何人の口から聞かされたか。先生だけじゃない、看護士さんからも、麻酔科の先生も、薬剤師さんからも。みーんなが、全ての可能性、というより最悪の可能性のことを、包み隠さず、本人に向かって言うのだ。
それはほかでもない、患者の保護のためではなく、病院側の保護のためだ。
ぜーんぶの可能性を言って、
「はい。それではそれを承諾という事で、ここにサインをお願いします」
横に座って黙って聞いていたとおちゃんの眼は、うるうるしていた。
0 件のコメント:
コメントを投稿