2012年9月19日水曜日

欲ばるこじきはもらいが少ない

「なんで?」
やまんばはあたまをひねる。

先日小松菜とシュンキクの種をまいた。
まだカラカラに乾いていた土。ためていた雨水をかけ、上に刈った草をかけた。次の日、何気なく眼をやると、もう小松菜の芽がではじめていた。シュンキクの方も小さな芽がではじめていた。
たった一日で芽が出るもんなのだろうか。

気をよくしたやまんばは、立て続けにチンゲンサイ、ノラボウ、レタス、壬生菜、ほうれん草と種を蒔く。その後雨が降っては晴れて、秋蒔きの野菜にとって絶好の天気となった。
それから1週間もたつにもかかわらず、いまだに芽がでない。
理屈で考えれば、雨がたんと降ったのだ。お日様もたんとでたのだ。あの小松菜とシュンキクのように、次の日に芽がでたっていいじゃないか。

そういえば、ゲリラ種まき作戦をやったのら大根のとなりに、壬生菜、みやまこかぶ、ほうれん草の種をまたゲリラ蒔きした。その後理想的に雨が降ったにもかかわらず、全くうんともすんとも芽がでない。

「なんでや?」
それは小松菜とシュンキクだけが、元気な種だったといえるのか?しかしのら大根はどうだ?畑ではなかなか芽がでず、ゲリラ蒔きした兄ちゃん所ではぐんぐん育つ。


やまんばは考えた。なにがちがうのか。
ひとつだけ違うことがある。
それは、欲だ。

「へっ?欲?そんなもんだれにだってあるがな。」
まあまあ、ちょっときいておくんなあれ。

兄ちゃんちの畑にゲリラ蒔きしたとき、やまんばは芽が出ることを全く期待していなかった。小松菜とシュンキクを蒔いたときもそうだった。全然あてにしていなかった。

「こりゃ。あんさん。全然あてにしないで蒔くことがあるか。それは欲があるからこそ蒔くのだ」といわれればそうかもしれない。
でも、その後のやまんばの行動とは違った心持ちだった。

というのは、小松菜とシュンキクの芽がでた時、「うほっ」とおもったのだ。「こりゃいける!」とおもったのだ。
ゲリラ蒔きののら大根の芽がでていたときもそうだ。「うほっ。こりゃいける!」と。

このとき、未来への期待感が動いたのだ。
その期待感(ようするに欲)の上に種をまいたものが、さっぱり芽がでないという結果を呼んだ。

この現象は、単に「種がわるい」「種の種類が違う」「あんたの蒔き方がわるい」「タイミングがまずい」というふうに片付けてしまうのはもったいない気がする。

小松菜とシュンキクとゲリラ蒔きののら大根では、何かが起こっていたのだ。そしてそれ以外のものにも何かが起こっていたのだ。その違いは心だとしたら。。。?んなあほな。

はっきり分っているのは、はっきりと欲かいた方が、うんともすんともことが動かないということだ。もう片方の方は、種蒔くぐらいだから欲はないわけではない。だが、何かちがう心持ちだったことは確かだ。ゲリラ蒔きはただ楽しかったからだ。小松菜とシュンキクは、ただなにも考えず、期待もせず、淡々と蒔いた。

ほかのは、「へっへっへ。。。すぐに芽が出るぜえ〜〜〜〜」という皮算用がおもいっきり働いていたのだ。その結果がこれだ。

では欲かかなきゃいいって話になる。どーやって、欲かかないで種を蒔くのか。それがわからない。なにせ、「こりゃいける!」という未来への皮算用の心境はわかりやすいが、「。。。。。」という心境は「あんとき何考えてたんだっけ?」と思い出せないからだ。

つまりこういうことか?なんも考えてないと記憶に残らないのだ。
なんも考えてないとは、自我がないということになる。そもそも考えるとは自我の働きだ。思い出すのも自我の働きだ。思い出せないから、無我の働きなのだ。

ひえ〜〜〜〜、どーすりゃうまいこといくのよ〜〜〜。
あ。。。うまいこと行こうと思うのも自我の働きだ。

マレーグマのツヨシ君状態のやまんばであった。

もうダメだ。考えらんない。
頭ぼさぼさにして、さっきゲリラ蒔きした畑を見に行った。

のら大根のとなりで、みやまこかぶと壬生菜の芽がちょこんとでていた。

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