ちょっとお下品ですが、高知から帰ってきてからうんちの出が3日に2回になった。高知でいたときは、毎日出た(あんたの便の話など、ききとーない)。
理屈で考えれば、高尾にいるときは、玄米食で畑の野菜食っていつもの生活だから快便なはずで、高知にいるときは、かあちゃんちだし、外食ばっかりだったし、玄米食わないし、食べてるとしたら、魚、魚、魚、ちょい野菜(魚のつまのようなキュウリやレタスちょっぴり)、白米。
これではとーぜん便秘なはず。
ところが事実は全くの逆。いったいどーゆーことか。
なにが違ったかとゆーと、かあちゃんちでは、なーんもやることがないのだ。いや便所の掃除、部屋の掃除、朝ご飯や昼ご飯の用意、やることはいろいろあった。でもなんつーか、心の中が忙しくなかったのだ。
かあちゃんちの部屋をながめるに、私に関するものはナーンにもなく、あるのはかあちゃんのものばかり。もちろんコンピューターもない。ネットも見れない。
すると心の中は、からっぽになっちまって、なんにも考えてなかったのだ。思考停止状態。たたんだ布団を背もたれにして、ほげーっと座る。目で追いかけるのは、かあちゃんのよたよたした歩き方。
こんなに自分の心が静かだったことがあっただろうか。
帰ってみると、こりゃまたかあちゃんちと違って、自分に関するものだらけ。
庭見りゃ草ボーボーに罪悪感が騒ぎだす。『ああ、草刈りしなきゃ』
台所見りゃ、『ああ、きたない』
スケッチブック見りゃ、『ああ、仕事しなきゃ』
コンピューターみりゃ、『ああ、ブログ書かなきゃ』。。。
一気に思考が動き出した!ついでに便の出もわるくなった。
つまりこーゆーことか?
人間の身体そのものは、そのまま完璧であって、粛々と消化や吸収がおこなわれて健全である。ところがいっぺん、思考が動き出して、ああじゃない、こうじゃない、と心が言い出すと、その粛々ととりおこなわれていた身体の動きにアンバランスを生み出し、滞りがちになる(!)ということなんじゃないか。
人間考えたら何とかなる、と思い信じてきたこの世なのだが、その結果はどうだ?考えて考えて健康になったか?ますます病気は増えていき、精神は悪化する。
世界中を旅して一人踊ってたマット君のビデオが今年も出た。
いつのまにか世界中で、大勢の人と踊っている。なんだか涙が出る。それはこの地球上の人々がみんな同じおもいで生きているから感銘するんじゃないだろうか。単純な踊りなのに、みんなとっても楽しそうだ。そんなものになんで感動するのか。ホントはみんな踊りたいのだ。みんな一緒になってあそびたいのだ。
でもあの踊った人々はそれが終わったあと、またいつもの自分の生活に戻り、心は不安と不満で渦巻く日々になる。そして不満の心がいっぱいになってくるとまた、あのときの感動を取り戻したいと、同じような事をする。
だが、それでは今までと同じなのだ。今までの繰り返しでしかない。
あのみんな楽しく踊ったあの姿は、そのまま人間のエネルギーの姿そのもので、それが本来の姿で、それを日常の中に降ろして来るのは、自分の思考の使い方ひとつなのだということだ。
会社で成績が悪ければ、上司とその場で踊っちゃうのだ。
高知のことわざがある。(そんなのあったかいな)
「お日さん、西西」
色々あっても、台風で家飛んでも、お日さんは必ず西に沈む。考えても無駄無駄という、ふか〜い教え。
お通じにいい思考停止。
やまんばの経験でした。
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