2012年3月7日水曜日
ワイドアングルビジョン
ワイドアングルビジョンって名前つけちゃってるけど、べつにインディアンが自分たちでそう呼んでいたわけじゃない。それを見た白人が『彼らはそんな目で物事を見ている』と気がついたのだそうだ。
20世紀初頭に撮られたエドワードカーティスのインディアンの写真集をみてもそうだ。彼らの視点はどこにも定まっていない。
「あの子も昔はワイドアングルビジョンだったんだけどねえ。今はもうトンネルビジョンになっちゃった」
と、その友だちの彼氏はいう。
近所になかなか目の鋭い男の子がいる。その子は前はインディアンのようなワイドアングルビジョンの目だったという。ところが最近はすべてにピントを合わせるようになってきたそうだ。
「そりゃあそうだ。だって、やれよそみするな、この黒板見ろ、その教科書見ろって、つねにピントを合わせることを先生が教えているんだもの」
なるほどー。
インディアンにとってワイドアングルビジョンは、生きるために絶対必要なことだった。焦点をあわせないとは、(意識的にあわせないのではなく、結果的にそうなっている状態)、全神経に意識が注がれている状態のようだ。遥か遠くにいる動物がうんちしているのもわかるし、危険が迫っていることもキャッチする。身体全部が五感以上のセンサーになり、後ろのものまで気がついている。
あれ?うしろのもの?なんかサムライの話にも通じてるなあ。。。
しかしその反対のトンネルビジョン(一点をみること)になると、何も見えなくなってくる。(見えているのに見えないとはこれいかに?)だからトンネルビジョンはできるだけやらないようにするのだと言う。ちなみにそうなるのは、狩猟のときと恋愛の時だけだそうだ。
しかしなんだなあ。
わしら現代人は、インディアンにいわせると、ほとんどトンネルビジョンじゃないか。おまけにワンセグやスマホや、えーとなんだっけ?なんだかわからんが、とにかく、ちっこいもんに集中するようになっちまった。これ、トンネルどころか、ピンホールビジョンじゃねえか!
そーいうちっこいもんに集中することが多くなると、ほれ、やまんばの一人勝手に妄想論が炸裂する。焦点が合うと思考が始まるのだ。
今、武士道みたいなもんがはやっているが、それこそ日本人版ワイドアングルビジョンやってたんじゃないかえ?それが宮本武蔵のいう「観の目」だったんじゃないだろうか。
いや、単に焦点合わせなきゃいいんだろって話ではなくて、観の目とは、思考が止まり、すべてのものに反応している状態、そこには自分も他人も山も動物も何も境目がなく、全体がひとつになって、すべてが感応しあっている状態のことをいうんではなかったんだろうか。それはすなわちすべてが「わかる」状態。。。
反対に「見の目」は、いつもその目に見えることをだけを考え、それは自分中心的な視点でしかなく、結果的に狭い自分のものの見方しか出来なくなるんではないんだろうか。それは破壊的でかぎりがあるから、インディアンはあえてそれをするなと言っていたんではなかったろうか。
そして宮本武蔵も
「ほれ、その目、その目を弱くしとけ」
と言ってたんではなかったんだろーか。
わしらも小さいとき、誰に教わることなく使っていたんだろうな。
それが大人になるに連れて、何かに集中することを教わって、見ることばかりにやっきになって、ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないと、目先のことに右往左往し、いつのまにか、大事な観の目を忘れていったんじゃなかろうか。
絵:うっとおしい顔やろ?私の腐れ縁の友だちの顔です(笑)
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2 件のコメント:
どれだけ、見逃してきたものがあるんだろう・・・って、悩むなら、見て来れたものを100%って思ったほうがいいんでしょうね・・。
見逃してきた、とおもうと、なんだか損した気分になりますよね。そういう意味では、見てこれたものを100%とおもうのは、ポジティブな考え方ですね。
一方、見逃してきたとはおもわず、私たちは実際は何も見ていないのかもしれないということを知ることは、謙虚な視点で、そしてとても大事なことのような気がしています。
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