2011年12月1日木曜日

否定する快感

心が落ち着いてくると、自分の行為が冷静に見られるようになる。するとそれまで気がつかなかったことや視点があらわれてくる。

だいたい人が怒るきっかけは、ほとんど同じところにある。
いつも似たような出来事に、似たように反応している。それに気がつく。
その時、意識はもう自分の外に出ている。
自分を外から見る事によって理解し始める、けんかした相手の視点、考え方、立場。

もっと引いて二人の様子を眺める。その時、批判的になっている自分がいないことに気がつくだろう。そこには感情というものが存在していないことに気がつくだろう。

この瞬間が何よりも大事なのだ!
ここ!ここ大事!テストにでるよ。(でないでない)

するとふしぎなことに、相手とか自分とかの境界線が曖昧になってくる。こっちの陣地、あっちの陣地、と今まではっきりと引かれていたラインが、ぼんや~りしてきて、どこまでがどこまでか、どうでもいいことになってくる。
ここまで来ると、いい、わるい。正しい、正しくない。善、悪。敵、味方。という線引きがなくなってくる。二元論が消えていく。


やまんばが、ひさしぶりに日本に帰って来たとき、日本の人々やテレビやものもろのシーンで、「敵」とか「味方」とか言っているのに気がついた。それまでいた、人種のサラダボールといわれたニューヨークでは、言葉も文化も違うから、必然的に人種が別れてしまうけれど、日本の同じ文化、同じ言葉が通じ合う中で、なんで敵とか味方とか言ってるんだろと笑ってしまったものだ。
しかし実際はそんな単純なものではなかった。
人々の心が不安定になって、自分と言うものがなによりもたちあがってしまったことのあらわれだったのだ。

ここで質問。

「○○ちゃん、これたべる?」って聞かれると、
「うん、たべる」と応えるのと、
「○○ちゃん、これたべる?」って聞かれると、
「やだ。いらな~い」という。
さて、どっちが自分を強く意識するでしょう。

「お前のことが大好きだ」
というのと、
「お前のことが大嫌いだ」
というのでは、どっちが自分を強く意識するでしょう。

「人類みな兄弟」というのと、
「戦争反対」
というのでは、どっちが自分を強く意識するでしょう。

いきなり変な質問で、なにがなんだかわからない?
でも、なんとなく否定的に言っている方が、自分の意識をたちあがらせる感じがしないだろうか。

否定的に考えている方が、自分というものを強く意識させる。これは自分に向けられる否定的なことでも、人に向けられる否定的なことでも同じ。
「オレってダメだ!」と思っている方が、「オレっていいヤツ」と思っているよりも自分を意識する。反抗期の時、親に向かってなんでも「いやだいやだ」といっていたのは、自我のめざめともいうが、別な言い方をすると、自分というものを強く意識させてくれる瞬間を知ったからだ。

あれ、快感なのだ。

それ、だめだ。
おまえはまちがっている。
これだから政治家はだめなんだ。
大人ってずるい。
あの人、ひどい人。
それって、ないんじゃないの?
信じらんな~い。

この言葉は、なんでも「うんうん、そうだね」っていうよりは、なんかいい気分にならないだろうか。ちょっとオレはほかの奴らと違うぞ、考えてるぞ、なんて。
昔いなかっただろうか。近所にうんちくたれるオヤジ。
「だいたいだなあ~、世の中は。。。」
そういってるオヤジはいい気分にひたっているように見えなかっただろうか。

それと同じで、こっちが味方であっちが敵、エイエイオー!ってやると、人は燃える。敵を持っている方が燃えるのだ。だから敵を作る。
でもよく観察すると、敵に依存している。
敵がいてくれないと困るのだ。だってそれがいないと、自分が立っている位置が分らなくなるではないか。生きる目標がなくなるではないか。ついでに自分がいる意味も見出せないではないか!
どっかのお国もそうだ。いつも敵を作らないといけないらしい。だから自ら敵を探しにいく。足りないと時々自分で作る(笑)。

これを『敵依存症』と呼ぶ。(呼ばない呼ばない)


問題意識、問題定義がなされている時、心は「オレは正しい」という大義名分の上に乗っかって、いきている実感が得られる。自分という存在を強く意識できる。その快感は延々と持続してくれることをのぞみ、これが言葉自動発令機のエネルギー源になる。

だが、反対に心が静かになった時、感情的でなくなっている時、わたしたちは、自分というものを強く意識しない。そのとき、やっかいな自分というモンスターはどこにもいない。そして相手と自分との境界線がなくなっていく。

これがジル・テイラー博士が言った右の脳の働きなのではないだろうか。

私たちは否定的にものを考えることによって自分を強く意識する。二元論を持ち出せば持ち出すほど、自分がたちあがる。それはある種の快感である。もっとそれをほしがる。だが不幸なことに、それに比例して、自分と他人というくっきりとした境界線が現れ、孤立の道へと導びかれるのだ。

孤立した心は自己保身が強くなる。外からの言葉に過剰に敵対心を持つ。それが「敵・味方」や「仲間」という言葉に現れてくるのではないだろうか。
さながら荒野に放り出された一匹狼のように。

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

うんちくおやじでーす。(笑)

まぁ、ひとつには他人の悪いとこは苦労しなくても見つかる。ってことではないですかね。
他人のいいとこって、見つけてやろう。という意思がないと見つからないです。
でも他人のことを褒めてると、嫌われる原因にもなるんよ。私はそれで随分もめた時があった・・・。

もうひとつは、ややご指摘の通り、他人を貶すことで相対的に優位に見せたい(思いたい?)ってことでせうか・・。

つくし さんのコメント...

おっしゃるとおり。
人の悪いとこは見え過ぎちゃいます。

で、自分の悪いとこは
「わかっているよ。わかっちゃいるけど、これがやめられねえんだ!」
というのが、やまんばの真の姿です(笑)。
ごめいわくをおかけいたします。