2011年4月20日水曜日
私たちは変転する
ここのところ、毎日地震がある。
毎日地震があるってすごいことじゃない?でも毎日あるのだ。揺れるたびに、「あ、地震だ。。。」と身構える。これが毎日。生まれてこのかた、こんなに地面が揺れているのを味わった事がない。地面ってどんと腰を下ろしてじっと動かないもんだとおもってた。それが、頻繁にぐらぐらゆれる。今までの常識の変換を迫られている。地面は動くものだと。
千葉から東側を震源とする地震の揺れは、ズズズ。。と小さな揺れのあとに、ぐらぐらと大きなのがきて、それからまた揺れては静まるという一定のリズムを繰り返す。まるで水の中に石を落とした時の波紋のようだ。私たちは水のような地面の上に住んでいるのだ。
最近テレビでは「安心安全に。。」という言葉が呪文のように繰り返される。進まない復興、安心できない状態の原発、今も落ち着かない地震。足下が揺らされている現実を、言葉で安心させようとするかのようだ。
地面が揺れると、無意識に足で踏ん張ってみたりする。力入れて踏ん張ると地面の揺れが止まると思っているらしい。しかし効果はいまいち。(効果あるんかい!)
というように、人はなんとか安心で安全で安定する状態をほしがるのだ。そうであってくれないと、死という恐怖を思い起こさせるからだ。
だが私たちは一度でも安定した状態にいた事があるだろうか。今この瞬間にもすべては動いている。私たちのからだの中の細胞や原子は今も凄まじいスピードで変化をしている。地球も太陽のまわりを巡りながら、自らも回っている。その太陽系は銀河のはしっこで回っている。そのスピードたるや!樹々はどんどん芽吹き、地面から植物が芽を出し、葉を広げ花を咲かせ、実を付け、子孫を残しつつ、自身は枯れて土となる。やがてそれは水となり、空気に変わる。
いったいいつ、とどまっているのだろうか。畑に咲きほこるカラスノエンドウは、その姿をひと時もとどめてはいない。私たちがそうだとおもっている「カラスノエンドウ」とは、彼にとってただ一瞬だけのものだ。彼はやがて枯れて土となり、水となり、気体になるのだ。どれがか本当のカラスノエンドウなのだ?本当は気体の姿が「カラスノエンドウ」だったりするのではないのか?
このように安心安全安定は、人間がそのようにしたいと思っているだけであって、そんなものは存在しない。地面は動くもので、人生は変化するものなのだ。今それを知る事を要求されているのではないのか。すべては流転して、決してとどまる事を知らない。私たちが感情的に要求する安心安全安定、そしてとどまることは、すなわち「死」なのだ。私たちが一番恐れている死なのだ。
生きているという事は、ひたすら変化しつづけることなのだ。その変化をあるがままにすることが、本当は心の安泰になっていくのではないか。止まっていなければいけないと思うから恐怖が走る。安定はないのだと知れば、力入れて足で踏ん張らなくなる。よけいな労力も使わない。
このさい、いっしょに揺れていよう。
絵:カットイラスト
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2 件のコメント:
そりゃあ、結構若い地球君の時間単位で言えば
我々人類は一瞬の存在でしょうけど、僕らは
みんな生きてるわけで、もぐらだって、アメン
ボだって生きてるんだもの、いろいろ考える
ことぁありますよね。きっと、アメンボだって
彼らの時間感覚のなかで、悩んだりしてるん
じゃないかなぁ・・・。
今この瞬間にも私らは動いてる。からだの中が動いている。ちっとも止まっていない。止まっていると思っているだけなのだ。
いや人間は、動きまくってちっとも止まらないという事実の恐ろしさを知っていて、
「止まっていてくれよ〜!」
と、要求しているのかもしれんね。
(誰に?)
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