私は小さい時、目の前にあるものはすべてハリボテだと思っていた。
私が360度自分の周りをぐるっと回ると、それに合わせて人も風景もパタパタパタと展開する。まるで劇場の後ろのセットのような感じ。世の中とはそんなふうに成り立っているのもだと思っていた。目の前にいるお母さんはハリボテで、後ろは真っ平ら。そして今立っている私の後ろには三次元的な物質はなく、真っ暗か曖昧な世界が広がっているんだと。でも幼い私にとってそれはつまり、この世界には、自分しかいないのではないかという寂しさと繋がっていた。だから人に会うと、何気なく背中を触ってみる。そこには人の背中の物質的な肉を手に感じたものだ。視覚でない触覚ならそれを確かめられる、という考え自体がおかしいのであるが、それでもそうやって確かめて、子供ながらどこかでホッとしていたのだ。
大人になっていろんな勉強をするうち、この三次元の世界に見えるものは、単にその人が見たいように見ているのだ、という思想を知る。なんのことはない。お釈迦様がおっしゃった。「この世はマーヤ(幻想)である」と。だから目に見えるものに惑わされるなと。
目に見えるものは絶対的なものではなく、じつは曖昧なものなのだ。
宮本武蔵も言っていた。「見を弱く、観を強く」。目の前に展開する物事に惑わされるな、その目の前にあるものの奥深くの本質を覗けと。
雷が鳴り響いて、大雨が降り、ヒョウまでボコボコと落ちて来た今日のお天気を味わいながら、何となく思い出した事だった。
0 件のコメント:
コメントを投稿