2023年5月1日月曜日

選択は私にかかっている

 


自己嫌悪の強い人は、つねに自分を裁く。

まるでこの世の悪いことは全部私のせいだと言わんばかりに。


それは傲慢と言われてしまうかもしれない。

お前ごときの小さなものが、そんなことできるわけがない。

傲慢にもほどがある。

はたから見たらそんな風に見える。


しかしひとつ息をするごとに自分は罪を犯し、

一歩踏み出すごとに罪を作ってしまうという信念を持っているものたちにとって、

それは傲慢でもなんでもなく、

ただただ自分という存在に恐れおののいているのだ。


私さえいなくなれば!この存在さえなきものにしてしまえば、この世は平安だ。

だが、そのなきものにさえできない、この臆病者。。。。!



どんな思いさえも、自分を罪にする。

私もそんなふうに考えてきた一人だ。


この罪深い存在をどうにかして罪を減らしたい!

だから罰を受けて、受けて、受けて、

この罪を償いたい!

今思えば、そう思って自分に罰を与えてきたようだ。


だが一向に罪は減らなかった。

あんなに罰を与えたのに、

罪はいまだに私の近くにあった。






私は自我という架空の存在に丸め込まれていた。

自我は常に私の耳元でささやく。

「お前は罪びとだ」

「お前は能無しだ」

「お前は人を傷つける」


その声を聞いた時、私の心は凍りつく。

「そうだ。今私はとんでもないことをしてしまった!」

目の前に繰り広げられる出来事の中に自分の罪を見つける。

「またやってしまった!」


その時、心はなんとも言えないみじめな気持ちになる。


この広い宇宙の中で、全くひとり取り残される分離の感覚。

誰も助けてくれない。

誰も私を愛の目で見てくれない。

すべてのものから裁きの目で見られる。

十字架に張り付けられる感覚。


「うわあ~~~!ごめんなさい!ごめんなさい!もうしません!許してください!」


幼かった頃のみじめさと恐ろしさの感覚が生々しくよみがえる。


やってしまったことはもう取り返しがつかない。

過去には戻れない。

もうどこにも行けない。

そうなると、ものすごい後悔と罪悪の感覚で身動きが取れなくなる。

この場で自分を切り刻んで殺してしまいたくなる。


しかしそれも恐ろしくてできない。

その自分の弱さにまた自分を責める。

この根性なし!


その自分の犯した罪を持っていることに耐えられなくなると、

その罪を暴き出した目の前の人物に向かう。


恐れは怒りに変わる。

お前を殺して自分も死ぬ!





これが自我が提示してくるアイディアだ。

そこにちゃんと長い間ハマってくれていた私に自我は感謝するだろう。


ってわけない!


自我はそのトリックに気がつかれたら困る。

いつまでも不幸のズンドコにいて欲しいのだ。




コースを理解するほど、

そのトリックと、ネバーエンディングな物語に、

だんだん「あれ?」って思い始める。



私が罪を見つけている限り、罰を欲することになる。

罪にはもれなく罰がついてくる。

罪と罰はセットだ。

罪と罰はこの形ある世界で繰り広げられる。


そして自我と罪はセットだ。


しかしその自我とは、架空のもの。

ところが架空を架空にしない私がいたのだ。


罪はある!といって、自我を実在させ続けていた。


自我のささやきに耳を傾けて、

「そうだそうだ」と同意してきたのだ。


ちょっと待てよ。


同意できるということは、

同意しないでいることもできるということだ。。。!



選択は私にかかっている。


このみじめな思いをこれ以上したくないならば、

それを選ばないでいることができる。


みじめになっている自分に気がついた時、

「私はそこに居たいだろうか?」

と聞いてみる。


もう何十年間もそこに居たのだ。

きっととても慣れ親しんでいる。

みじめでぶざまで自己憐憫する時間。。。。

そこにいつまでもたゆたよっていたいのか?


じっさい私はそんな存在なのだろうか。


「そうだそうだ」と後ろで声が聞こえる。


でも今はそれを掴まないでいることができる。

なぜならその声は自分の外にあることをもう知っているからだ。



神は私を無能だというだろうか。

神は私を罪深いというだろうか。

神は私を欠陥だらけの存在というだろうか。


それは誰のアイディアだ?

私を小さきものにするのは誰だ?


そしてその声を外に聞いている、

この私とは一体誰なのか。




絵:「夏の草」




2023年4月29日土曜日

自分が作っていた!

 


私の近くに極悪人がいる。

そいつは残酷でアホで私を常に罪人だと言い放つ。

そしていつも私に不幸をもたらすのだ。

こいつをどうしてくれようか。。。


いつも心は私がどれだけ誠実で正しいか。

どれだけあいつは非道で間違っているか。

私の人生に苦痛をもたらすのは、誰あろうお前だ。


そう言い続けていたある日。

その極悪非道なやつの別の面を見た。


それは美しく優しい、

とてつもなく大きな慈悲を持った存在だった。

私はその存在の横で自分の罪が消えていくようだった。


そしてまた極悪人が戻ってくる。

私をこれでもかとなじる。


罪深い!と言い放たれ、

その同じ人間に、言葉ではないけれど、罪などないのだと思い出さされる。


この行ったり来たりに

「なんなんだこれは!?」と。




私たちは、身近な人たちに役柄を与えている。


悪を成敗するお代官様、極悪人、

たいして影響力のない平民、外から文句を言う外野。。


私と言う主人公、、、

ある時はマッチ売りの少女、

ある時は眠れる森の美女、

ある時は高い塔の上に幽閉されたラプンツェル、、、

私を私たらしめるために、役柄を周りに与えている。


ちょっと悲しい、じつは密かにすごい秘密がある美女。

その不幸な美女のまわりに、

悪を働く毒親、、いや魔女や、

美女をたぶらかす蛇などを配置する。


そしてある時は嘆き、

ある時は勇敢にそれと戦って

人生のアップダウンを繰り返す。


とは言っても、ほとんど不幸、時々幸せ程度。


あいつさえいなかったら。。。

あの野郎、そのうちどうにかしてやるぜ。。。

美女は悪態をつく。


これが私たちが日頃繰り返している人生劇場だ。


私たちはこの人生劇場にいきなり放り込まれたかわいそうな美男美女。。。


ではなかったのだ。


この劇場を作ったのは、誰あろう、私だったのだ。。。!





この不幸は私が演出したもの。私はディレクターだった。


ここに来たもともとの理由は、私たちは自分を罪びとだと信じたからだ。

罪人である私たちは、当然罰を受けねばならない。

だから人生のほとんどが不幸。


それこそが罰を欲して、極悪人を配置し、突然不幸がやってきて、

葛藤を繰り広げる演出をし続けていた理由だった。





自分がやっていることに気づき、

私はその極悪人の役柄から、その人を解放した。

悪を成敗するお代官様の役も解放した。

全ての人々に与えた役柄を解放した。


そして私は不幸なすごい秘密を持った美女でもなくなった。


そうしたらどうなるのか。

私は無になるのか。


いいえ。

そこには喜びがあった。


自我の演出は、罪があると、どちらかに渡せば罪は消えるという。


しかし真実は、罪があるといえば、どちらにも罪がある。

そして罪がないなら、どちらにも罪はない。


極悪非道の役柄が消えた時、

私の極悪非道も消える。




そこに自由という喜びがある。




絵/MF新書表紙イラスト




2023年4月20日木曜日

なんだこれは


 

立て続けに友達三人が生命の危ういところにいる。


人間の肉体というもの、心というものが

一体なんなのか、必死で考えさせられる。


危機に面しないと、人は学ばない。

嫌だけれど、そんな時が一番考える。





「治療が始まる前に会っときたいなー」

などと言われると、


「こいつ、これが最後って思ってるんちゃうか?」

って思ってしまい、

「それ、あかんやつやーん!」

と心が叫ぶ。


そんな時、人は気の利いた言葉でも発すればいいのだろうが、

そんな言葉はちっとも思い浮かばなかった(笑)。




しかしその反面、

私は彼らの本当の姿を見ることになった。


肉体は終わりに向かって進んでいるかのように見えるが、

本当の彼らはそんなものとは全く関係がなかった。



体というこの厄介なものは、

生まれては死にを繰り返す。


私たちはその目の前に知覚する肉体をその人だと信じている。


でも私は見た。彼女の大いなる愛を。

それこそが彼女の本質。


それは全く肉体とは関係がなかった。

死のうが生きようがそんなもの、全く関係がない。


彼女は永遠に生きている。


その爆発するような力に比べたら、肉体なんて米粒以下。

指で弾き飛ばせるほどのちっこいものだったのだ。




彼女は過去、ずっと愛を求めてきた。

だけど裏切りの連続だった。


求めてきたのは何だったのか。

そしてなぜ求めてきたのか。


それはそれがそこにないと信じたからだ。

ないと思ったから、それはなかった。

それはどこになかったのか。

自分にないとおもったから。

だからそれを外に探しに行ったのだ。

でも42年間、見つけられなかった。


だがあった。


どこに?


彼女自身に!


彼女はそれを最初っから持っていた!


持っていたのに気がつかなかった、愛するということ。


愛するということは、愛されるということを必要としない。


愛している。それだけで全てが完結する。

それだけで満たされるのだ。


自分の愛に気がつく。

どれだけ兄弟を愛しているのか。

どれだけ無条件に愛しているのか。


どうしてくれたから愛するわけでも、

どうされたから愛されているという証明にするわけでもない。

そんなものは自我のトリックだ。

自我は常に本当のことを煙に巻いてわからなくさせる。


だが彼女の行動を見ればわかる。

全く無条件に愛し続けていたのだ。

どんな仕打ちをされても。


確かに、意識されている心は大きな怒りを持っていただろう。

しかしその下には、すべてを赦しつくしている愛があった。


それが見えた。

びっくりするぐらいの巨大なもの。


おおお。。。

なんだこれは、と。


自我が煙に巻いた朦朧とした世界の中で彼女は愛を探していた。

自我は、あなたは卑小で弱い肉体を持ったこの世界の住人だと教え込む。


愛は自分の中などにはなく、

外に見つけに行くものだと教え続けた。


そしてその自我の考えは、

「探せよ。されど見つけることなかれ」だ。


実際自我と同調してその考えの中でいる限り、

それを見つけることはできない。



青い鳥は外にいなくて家の中にいた。

家の中どころではない。

青い鳥はあなた自身だ。

あなたよりも近いところにあるものだ。



自分が愛だと知れば、それはもう求める必要はなくなる。

もうすでに持っているのだから。

だからそれは外から奪うものではなく、

外に拡張していくものなのだ。
その性質上、拡張せずにはいられないものなのだ。


肉体を見ている限り、限界と惨めさを味わう。

しかし本当にあるものを自覚した時、

誰が主人か明確になる。

肉体は従順にその主に従う。



その巨大な愛の力で、

新しいパートナーといつまでも仲良く元気に生きてほしい。




絵:「森の気配」