昨日地域のお祭りがあった。
このお祭りには毎年わが陶芸教室の生徒たちが出店してきた。
私も去年その仲間入りをした。
だが今年はその主催者側の40周年記念とかで式典が催され、私たちは出店を断られる。
だが蓋を開けてみれば、二日間のお祭りのうち、二日目は通常通りのフリーマーケットや焼き鳥などの出店があった。
うちだけ外されるのはどういうこと?
いやいやこれは式典のせいで外されただけだから、
来年は出店できるはずと思いながら、その代表の方に打診をしてみた。
すると来年は来年でわからないという返答がきた。
どういうこと?うちだけ外されて他はいいってどういうこと?
私の心に動揺が走った。
確かにうちの先生は嫌われている(笑)。
でも地域の人々に喜びを提供するというコンセプトであるのに、
その地域の人間が外されていいのか?
「なんだ~出店してないのか~。
つくしさんの器が買えると思ってきたのに~」
と言ってくれたりするとなおさら。
そう思った時ハッとする。
私は結果を求めている。
こうあってほしいという思いがある。
だからそうならないことに苛立つ。
この世界を実在させ、この世界に固執している自分がいた。
そんな自分を赦し、お祭りの実行委員の持ち場に戻った。
そこである町会の会長と知り合う。
彼は来年もこの同じメンバーで祭りを支えていこうという。
来年。。
ふと心が重くなる。
来年の陶芸の出店も実行委員のメンバーも、ここにない空想の世界。
今目の前にあるものがすべて。
未来は架空の話。
世界は今しかない。
そういう言葉がだんだん本当のことだと思えてくる。
しかもその目の前に展開している世界も存在しないらしい。
人々が未来にフォーカスするのは、
今というものが受け入れられないから未来にそれを託す。
だがその未来が来ても「今」だ。
ずっと今であり、それが嫌で未来へ未来へ心は前のめりになる。
私が来年の陶芸出店に固執するのは、今そこにないから。
出店できないもどかしさが、来年の保証をを求めて代表者に打診していたのだ。
それが安心感をもたらすと信じていたが、それこそが不安をもたらす。
代表者の方が「わからない」と言ってくれたのは、
私にその架空の期待があることを教えるためだった。
今というものも、実は何もわからないものだ。
そのわからないということがなぜか安堵になってくる。
ああなってはいけない。こうなってもいけない。
いけないからこうする。いけないからこうしない。
みんな未来からくる不安。
それは未来を知っているという信念からくる。
ニュートンの法則を知っているからくる不安。
医者が言うからくる不安。
情報が教えてくれる不安。
常識が教えてくれる不安。
そんなものみんな取っ払うとただアホになる。
アホのまま、そこにいる。
何も知らないと言うのはなんて愉快なのだ。
頭の中で愉快な音楽がなっている。
口をあんぐり開けてお空を眺める。
心が広がっていく。



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