「コースを学んでいるカップルって、どうなんですか?」
「大変だろうね。」
「え?やっぱり?そうなんですよ。
コース学習者同士だったら、
ああつながってるんだ~、
幸せ~ってなる瞬間に出会えると思ってたのに、
実際はコースの言葉の解釈の違いでケンカばかり。
相手がキツイ時に『それはね。。』なんてコースの教えを言ったらブチ切れられるし。
おまけに罪を見つけるのも素早くて、
『ほら。また罪悪感持ってる』と言われてさらにキツイ。。」
「そりゃあスピリチュアルエゴが騒ぐからねえ~(笑)」
先日のACIMミニフェスで出会った人たちとの会話。
同じ本を学んでいるのに、関係が悪化するってどんな本なのよ。
心の中を見ていくとあらゆる思いがあることに気づく。
無意識に沈めてあったものが浮上する。
ただでさえ、自分の嫌な思いが浮上するのに、その感度は相手にも及ぶ。
相手に罪を見る。
自分の罪の意識を見つけるのに、その延長線上で相手にも罪を見るのだ。
それが心の仕組み。
罪の目で見ると罪が見える。
愛の目で見ると愛が見える。
相手にどんな罪を見つけて罰しようとしても、
その罪を見ている限り、罪は消えない。
相手に罪を見ている自分は無罪だと思っても、
そこに罪を見ている限り、私もまた有罪なのだ。
そんな辛い日々の中、
私はある決心をした。
これは私の人生。
私が作り上げた夢物語。
そこから救う。
相手も私も救う。
そうなると、いちいち傷ついている場合じゃない。
ああ言われたこうされたなどと、文句を言っている場合じゃない。
そう決めたら俄然勇気が出てくる。
罪は、
放っておくことにした。
そしてどんなことでも徹底的に相手を肯定する。
私とコースの解釈が違う。。。と思っても口出ししない。
そしてだんだんと
これまでとは違う理解が生まれ始めた。
これまでは相手が喧嘩の最中に言った「言葉」に囚われていた。
それは私の罪をあげつらい、どれだけ辛かったのかと訴え、
これからこうしろと命令されたと見ていた。
しかしそれは抽象的でどうやっていいのかわからない。
それでも私が悪いんだから、なんとかしなきゃいけないのだと自分を責めてきた。
でもどうしようもできないことで自分を責め、
そう言ってきた相手も密かに責め続けた。
これが罪が罪を見ている状況だ。
ある時、「彼は正直なのだ」と気がついた。
その時思ったことを口にする。
空気は読まない。相手がどう思うかは考えてない。
それは誰かにアドバイスをする彼を見ててもそう思う。
相手の状況は見ていない。ただ思ったことを口にしているだけなのだ。
これまでの人間関係でもいろんなギクシャクがあった。
私はどちらかというと、空気を読んで穏便に済まそうとする。
それは家庭環境がそうさせたのだろう。
正直であるなら父に殴られるのは目に見えているから。
しかし彼には姉ちゃんがいた。
ちっちゃい頃、どんなに姉と喧嘩しても、すぐに次の瞬間、
何もなかったかのように一緒に遊ぶ。
それは彼の中に、「相手に何を言おうと大丈夫」
という絶対的な信頼感が培われてきたからなのだろう。
だから今までの人間関係にもその根っこに「大丈夫」という思いがあるのだ。
一人っ子だったからか、私にはなかった。
父に言われたことは絶対だった。
「つくしは簿記の学校にでも行かせたらいいだろう」
という父の言葉に、母が父をうまく誘導して、私は京都の美大に行けた。
そういう経験から、言葉の内容が重視されていたから、
「人は何を言っても絶対大丈夫」という発想がなかったことに気づかされた。
どんなに喧嘩しても翌朝けろっと起きてくる彼を見ていると、
姉ちゃんの存在は大きかった。
彼女を通して彼は人に絶対的な信頼を持ったのだ。
それは「人を愛の目で見ている」と言っても間違いではないだろう。
何十年一緒に住んでも気がつかないことがある。
心をこれまでと違う方向に変えたら、全く違うものが見え始める。


