2025年8月27日水曜日

心をどこに向ける?

「高尾の秋」和紙、水彩

 

私の作品集の制作、海沼武史の展覧会のDM制作、

写真集のためのパンフレット制作、そしてニュー写真集の制作と、

立て続けに入稿したのち、

毎週続いた盆踊り踊り子隊出陣がやっと終わった。


後はこれから私の10月10日から開かれる展覧会に向けて

本腰を入れるぞと思った矢先にぶっ倒れた。


まったく自覚がなかったが、相当疲れていたようで体が動かん。

三日間寝込んだ後、陶芸教室に行くも、途中で断念。

今日のヒップホップもドタキャン。

展覧会の準備これからって時に、間に合うのか、つくし!




体が動かんって人を不安にさせる。

ふた晩続けて痛みと恐れでまったく寝られなかった。

年老いるってこんな思いを抱えているのか。

世の中のご老人たちはいつもこんな思いを抱えているのか。


年老いて死んでいくのは当たり前のことなのに、

この世界の常識があまりにも残酷におもえた。

やはりこの世は地獄だ。


体はべったりと地面にドロドロに溶けて張り付いている。

30分とおかずにトイレに起こされる。

200キロの肉体を無理やり起こしトイレに行く。


その度に最悪な想念が飛び交う。

どうする?このまま元気にならなかったら?

どうする?何かとんでもない病気にかかっていたら?

手術費は?入院費は?そんな思いがぐるぐるする。

早く朝になってくれとひたすら願う。


そんな時、私は体じゃなかったことを思い出す。

そうだ、私は体じゃない。

私は?私はこの今ここに満ちているすべてだ。

何もない、何も見えないものの方だ。。。


そう思うと、それまで地面を這いつくばっていた私は、すーっと浮き上がる。

窓の外に見えている夜空に意識を向ける。

私は体の中にいなくなり、体を忘れた。



この体を忘れるということがいかに大事かを知る。

私たちの心は体の痛みやしんどさにすぐ捕まる。

この不快感をどうにかして取り除かなければと、

あの手この手を考えていることで、さらに体に取り込まれる。


自我は私たちを常に体に意識を向けさせようとする。

しかし体に意識が向かえば向かうほど、その不快感はさらに増す。

そしてさらに泥沼に入る。


それが自我のトラップだ。

あるあるある。不快感がある。

それをやめさせるんだ。そうじゃないと死ぬぞと。


そのメッセージは超絶惨めな気分にさせ、

この世界を重くのしかかる最悪な実在するものにさせる。


でも心を体に向けさせるのではなく、

逆の方向に向けるとき、

自ずと心のドアは開き静けさへと帰っていく。


ぎゅーっと凝縮する方向ではなく、ゆっくりと拡張していくのだ。

そこには体という固定化されたものがない。

体は霧のように淡く不確かなものだ。


私はその小さな殻から抜け出して大海原に出る。

幼い頃毎日見ていた室戸の海。巨大な空と巨大な海。

その全てが私の中にある。

私は空で、私は海だ。


巨大な私の中にこの地球はある。


小さなクリスタルボールの中の小さな夢物語。

私はそれを愛おしく眺めているものだ。


心をどこに向ける?


今回の出来事で、そのことがどれだけ大切かを実感する。








和紙で制作した作品のオンラインショップができました

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2025年8月20日水曜日

美しいダンス

「夜の蓮」和紙、水彩

 

ドラマ「愛の、がっこう」を見ている。

ホストと教師の道ならぬ恋のドラマなんだが、ラウールくんが良い!

最初、ヒロインの婚約者の川原ナニガシのボケーっとした気持ちの悪いダメ男ぶりが好きだったので見ていたが、ラウールくんの変な顔に惹かれ始めている。


6話の二人が離れがたく思っているあの思い。

ぶあ~~っと膨れ上がってくる思い。

このままひとつになりたい!という強い思い。


でもこのまま二人で逃避行したら、あんまり嬉しくない現実が。。。

とかそんなことは、おばさんはどうでもいい!


最近、悲しいシーンに泣かなくなってしまった。

かわいそうな悲惨なシーンには共感できなくて、「ふ~ん」と淡々とみてしまう。

でもその反対の思いにはすごく反応してしまい、その時思いがずっと心に残っている。


昨日見た「初恋」というドラマも最後に主人公が記憶を取り戻し過去のすべてを思い出すが、

すでに思いびとは飛行機に乗って遠くに行ってしまった後だった。

でもそこには溢れる愛があった。


「愛の、がっこう」も「初恋」も人を愛するわけだが、

人が恋愛をして頂点に達するその時、離れがたく、ひとつになりたい!という思いは、

実は神との関わりなのではないか。神と共にいた自分を思い出しているのではないか。


でも実は今も私たちは神と一緒にいる。


それを忘れちゃってて、

その忘れたが故にぽっかりと空いた欠乏感が、

ずっと誰かを求め続けることになる。


それは人だったり物だったり状況だったりする。

いろんなものを求め続けているが、

本当は神から離れてしまったという思いが原因なんじゃないか?

だから謎の大いなる探求に没頭してしまうのじゃ。



過去を思い出した主人公は、

ずっと自分が彼に愛されていたことを思い出す。

それはまさに、神がずっと私を愛してくれていたこと、

そして今も愛されていることをはっきりと思い出す瞬間なんだ。

だからあんなに美しいのだ。



この世のことは、次第にどーでもよくなっているおばさんがここにいる。


この世的には、一瞬の気の迷い?燃え上がる一瞬だけの炎?

結婚したら次第に冷めていくはかないもの的な扱いになっている「それ」は、

実はそれこそが真実なのではないかとか思い始めている。


異性を愛しても、同性を愛しても、

動物を愛しても、虫を愛しても、木を愛しても、

雨を愛してもいいのだ。

そこに溢れる心が満ちていく大きな何かは、

それが実在しているという証なのだ。


なんの形を求める必要はなく、

なんの形もどんなものでも

「ああ、素敵!」「ああ、幸せ!」「わあ、楽しい!」「大好き!」「食べてしまいたい!」

という意味不明な感情、感覚。


その感覚は広がっている。

ブワッと広がっている。

それをパワーが溢れるという言い方もある。


その形も無いもの、でも確かにあるそれこそが本来の私たちなのだ。


その時そこに神がいる。

神と神の子がいる。

一緒にお互いを喜び合っている。


この世ではそれは一瞬かもしれないが、それは入口だ。

神を思い出す入口なのだ。


それは錯覚じゃない。

気の迷いじゃない。

それは脳のドーパミンがナンジャラカンジャラで、、ではない。

脳なんかありゃしない。

人なんていやしない。


ただ思いがあるのだ。

形なんかない。


神と神の子の美しいダンスがあるのだ。







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2025年8月16日土曜日

考えろ

「山芋の花」和紙、水彩

 

ちっちゃい頃、変な子どもだった。


今立っている地面は、固いと思っているから私は立ってられる。

でも柔らかいと思った瞬間、底なし沼に足を踏み入れたように、

ズビズビ沈んでいって溺れてしまうかもしれないと思い、

必死で「地面は固い、地面は固い」と念仏を唱えていた。


壁だって、ひょっとしたらすり抜けられるかもしれない。

すり抜けている途中で、

「はっ!これは壁だった!」って気がついてしまって、

壁と自分の体が一体になってしまったらどうしようとドキドキした。


母親は段ボールでできたハリボテに見えて、

背中があるかどうか手を回して彼女の後ろを確認していた。


目の前にある風景は、私が見ているから存在するのであって、

見ていない後ろは真っ暗で何もない。

だからどうにかして後ろの真っ暗で何もない世界を見てみようと、

ものすごいスピードで何度も後ろを振り返ってみた。


しかし一向に真っ暗な何もない世界は見ることができなかった。

世界は私の振り返るスピードより相当な速さで出来上がるもんなのだなと納得した。




大人になって量子力学の話を聞いた時、これだと思った。

見るから現れる。見なかったら世界はない。


じゃあなんで見るのか。

信じているものを見ているのだ。


ラッキーなことに、私の心の底には「地面は固い」という信念と、

壁はすり抜けられないという信念があったから、悲劇は起きなかった。

母親の背中は、、、あってほしいという信念かな?



引き寄せの法則は、その量子力学を利用したものだが落とし穴があった。

信じているものをそう簡単には手放せない。


お金がないと信じている人が、お金があると信じることには無理がある。

アファメーションしたって無駄だろうなあ。

口で何万回唱えても、その心の底に「俺にはお金がない」と信じているからだ(だから「お金がない」が現れているのだが)。


私たちにはとんでもない量の信念がある。

その信念を解体するのはどうやったらいいのか。

それは無意識の領域にある。




私たちには大いなる欠乏感がある。

どんなにお金持ちであっても、別の欠乏感を持っている。

太ってるとか、健康でないとか、相手がいないとか。


この大いなる欠乏感を「あ~私欠乏感があるのね。」と言って、

それをポイッてできる人はほとんどいない。

信じているものはそう簡単には手放せない。


欠乏感って、自分はダメだという思いでもある。

まだまだだ。もっと手に入れなければ、もっと認められなければ、もっと、もっと。。。


私たちが苦しむのは、どんな状況であっても、

この自分はダメだという思いから、

苦しみを引き寄せているのだ。


引き寄せの法則はこれで成立!


どうして苦しむのか。

どうも私たちには自分がダメだと思いたいフシがある。

苦しまなければいけないのだ。

欠乏感があらねばならないのだ。


なんでか。

それが自分へのバツだから。


なんでか知らんが、私たちには大いなる謎の罪の意識があって、

その罪の思いのせいで、自分に罰を与え続けているのだ。


つまり罰を引き寄せているのだ!




「苦労しろ~、苦労しろ~。

そうじゃないとお前は地獄行きだ~」


そんな声が心の底で重低音で鳴り響いている。


つねに誰かに見張られている気がしないか?

「お天道様が見てるから、悪いこたあできねえ」とか。


ちゃんとしなきゃと思ったことないか?

こうあるべきだとか思ったことないか?


その根拠は?

誰かがそう言ったから。親にそう言われたから。

親は誰に?その親からだ(笑)。

そうやってひたすらループしているのだ。



地獄の閻魔様は、死んだ時、

どれだけいいことやってきたか、

どれだけ悪事を働いたか、

品定めをするそうじゃないか。


それ、本当に神様がやることかな。

そんなセコイ存在なのかな。


ひょっとしたら、そのセコイ神様は、自分なんじゃないか?

自分が自分を懲らしめるためにでっち上げた存在じゃないか?


マゾだ。

いや、サドだ。

(どっちも同じだ)


その自分いじめをしていることに気がつくことだ。


根拠のない罪に苛まれて、ひたすら罰を欲するって気違い沙汰だ。


私もひたすら自分いじめをしてきた。

はっきり言って狂気。


いじめたらええことあるって思ってきた。

苦あれば楽あり。

死んだ時、閻魔様に

「お前はかなり苦労してきたから、釜茹での刑ぐらいにしといてやろう」

と言われて、果たして私は嬉しいのだろうか。




神様は品定めするんだろうか。


デスバレーで出会った神様は、

と言っても姿を見たわけでもなく、

ただ『思い』がそこにあったんだ。

大きな大きな、とてつもなく大きな「愛」で私を包んでくれた。


愛を感じる時、何かの準備があったわけではない。

いいことをしてご褒美のようにやってくるわけでもない。

唐突に、何もしないでも、愛は降ってくる。



神は品定めをしない。

なんの条件もつけず、そのまんまで、何もしなくても、愛がある。


これ、ほんとに。

なんもいらないんだ。


条件つけてる神は自分が生み出した神。

自分に罪があると思いたいから罪を意識させるように作り上げた神。

これは同じところをぐるぐるとループさせる。

この物質世界を本物だと思わせるためのトリック。


でも無条件の神は、いつでもここにいる。

私たちがそこに焦点を当ててないだけなんだ。

忘れちゃっているだけなんだ。


肉眼で見えるものが本物だと思わせられちゃってるんだ。

肉眼で見えるもので苦しんで、

肉眼で見えるもので幸せになろうとする。


でもその幸せはいっときだけのもの。

花火のように消える。

だから次から次に追い求める。


そのことに気づくことが、

世界を別な視点で見ることができる。


考えろ。

感じることができたなら、

次は考えろ。


世界の矛盾を見つけろ。

おかしなループに気づけ。



もう自分で自分をいたぶらなくていいんだ。









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