2025年11月27日木曜日

心の声が世界をリアルにする


「ケヤキの道」和紙、水彩
 

先日、心の中の声が随分静かになったことを話したが、

この頃小さな小言が聞こえるようになった。


ふと老後のことを考える(もう老後だけど笑)

ふとお金の心配をする

ふと太ってると思う

痛みに心配する

あの人にあんなこと言っちゃってよかったんだろうか


という風に、かすかな心配事がふっと湧く。




心の声を聴き始めた頃、心の声は爆音だった。


ダメだ!

この能無し!

それ違うだろ!

またやりおった!

なんてひどいやつだ!

全部自分に向けての罵詈雑言だった。


私の中に猛烈な裁判官がいた。

一旦聞こえ始めたら、そいつは四六時中騒いでいた。

徹底的な自己否定。死んでしまえの連呼。

凄まじい罪悪感。地獄のような日々。


コースによって、その声がなぜ存在するのかを教えてもらう。

罪悪感とその声はセットだった。


そしてその先に出口があるのを知る。


自分を責めるには理由があった。

自分の中に信念、考え、概念がたくさんあった。

その概念をもとに自分を責めていたのだ。


それを聖霊に手渡し、一緒に赦し、

少しづつ少しづつ楽になっていく。


爆音がだんだん静かになり、

やがてふっと安息の日が訪れる。


一時的な休息の期間が与えられた後、

また声に気づくようになり、

心の訓練は続く。


責めることによって出てくる感情は、

消えるために出てきたのだと知り、

その都度、出てきてくれたことに感謝する。


また休息の時が訪れ、、、を繰り返す。

けれども確実に軽くなっていく。


そして今小さいけれど、囁く小言を聞いている。


心の声を聞けば聞くほど、感度が良くなっていく。

気がつかないほどの小さな声も聞こえるようになる。




そして思う。

この声はこの世界をリアルにさせている要因なのだと。


体のことを考える。

あ、痛い。。


するとそこから芋づる式に、あらゆる考えが浮かぶ。


ここがこのように痛いということは、

どこそこの骨がこのようになって、

神経にさわるから痛いのだ。

その病名はおそらく〇〇か、〇〇だろう。

いやひょっとするとさらにひどいやつかもしれない。

早く病院に行って調べてもらおう。

いやその前にいい病院かどうか調べないといけない。

下手な病院に行ったら、どんな診断されて、

とんでもないことになるかもしれない。。。


だいたい小言はネガティブなものだ。

何も起こっていないのに、もしこうなったら、

ということを考えて、ゾクゾクする。

その時自分の体というものをはっきりとらえる。

この厄介な代物。。。


このネガティブな感覚によって、この体をリアルに感じるのだ。


だがどこも痛いところがない時、体をあまりリアルに感じていない。


例えば、ぱっと見渡して何も問題が見当たらない時、安堵している。

その時、この世界はぼんやりしている。


しかし心の声が何かを見つけ出してささやく。

「ほら、この問題がまだあるだろう?」

ハッとして、

「あ、やばい!そうだった!あの問題がある。どうにかしなきゃ」

といって、心の芋づる時間が始まり、

この世界とこの体を超リアルにしていくのだ。




もしこの声がなかったらどうなるだろう。

おそらくこの世界は存在していない。


そこまで飛躍しないにしても、

この世界が私を攻撃するものではなくなるだろう。


誰が攻撃しているのか。

自分の中の声である。


誰かを責めろ、

自分を責めろ、

攻撃される前に攻撃だ、

攻撃できなかったら防衛だ。



自分の中から聞こえるので、自分の味方だと信じていた。

だけど聞けば聞くほど、

自分にとって不幸な気分にさせることしか言ってないことに気がつくはずだ。


その声の内容を採用するのをやめてみると、

その声はそれ以降沈黙する。


それに乗ると続くが、それに乗らないと消えていく。




そうやって静かになっていく心に、


もともとあったものが現れてくる。








和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです



2025年11月23日日曜日

私は赦されている

おいなりさんで晩酌

 昨日は奇跡のコースの教師末吉愛さん主催のACIMミニフェスJAPANというものに出かけてきた。


同じくコースの教師であるコオさんがゲスト出演している。この二人の顔合わせは初めてだ。

おもしろい!とは思ったものの、あまり人がたくさん集まる場所に行くのは好きじゃない。


ある日、はぎわらえりこさんからそのフェスへのお誘いのメールをいただいた。

全然興味がなかった八ヶ岳リトリートに行くことになったのも彼女の言葉がきっかけだった。

「いつもやらないことをやるのはいいですよ」

今回も彼女の言葉はお告げのように思えたが、まだウダウダしてた。


しかしその後、先日私の展覧会にサプライズで来てくれたエイミーさんからもメールでお誘いを受け

「これは行くしかない」と踏ん切りがついた。(どこまで行きたくないねん)


久しぶりの新宿。

30年前、毎日乗っていた丸ノ内線に「西新宿駅」なるものができてたのを知りびっくりする。

完全に浦島太郎状態。高尾山の麓からビル群ジャングルに分け入った。

エイミーさんとも偶然駅のホームで出会い、

これは何かあるぞという予感がした。




愛さんとコオさんのお二人の対談から、歌あり、ワークあり、瞑想あり、

そしてTシャツやパーカーなどのグッズの販売など盛りだくさんのフェスだった。

それに不思議な装飾窓(?)から顔を出しての撮影。。

恥ずかしすぎて変な顔で映る私がいた。



愛さんとお会いしたのは八ヶ岳から二度目だったが、

私のことを覚えていてくれ、まるで知り合いかのように親しく話しかけてくれた。


愛さんは、24時間幸せの絶頂にいると言う。そんな感じがした。

もう彼女はいっちゃっているのかもしれない。

彼女の愛が外に広がっていた。


コオさんとも直接お会いしたのは二度目だ。

「ご主人、その後いかがですか?」

2年ほど前にダンナと一緒にコオさんのイベントに行かせてもらった時のことを聞いてくれた。


コオさんは、もしかするとぱあ~っと空に飛んでいきそうな主催者さんたち側を、

ぐっと締めてくれる役割を果たしてくれていた。


「マイクを持たされたら話が止まらない」と言うほど、

お話はほとんどコオさんがされていたけれど、

私には彼の話がとても刺さった。


個人的にもお話を伺い、私の疑問点などをクリアにしてくださった。

そして私の中で密かに「目的」を確認できたことは大きかった。





しかしそれだけじゃなかった。

ワークや瞑想体験などで、私は何かをもらって帰ってきていた。


全員で輪になって手をつないだ時のあの感覚はなんだったんだろう。

今でも思い出す。


「絶対的な安心感と真の自由」

フェスのテーマであるこの言葉が、その感覚を教えてくれていた。



帰りの電車の中、「ああ、赦されているんだ。。」という幸福感の中にいた。


フェスに集まってくれている人たちはコースを学んでいるから、

赦しがどんなものかを知っている。

だからそこで何をしても言っても赦されているのはわかる。

しかし一歩外に出れば、そうはいかない、、、はずなのに、

電車の中で感じたことは、あそこでもここでも同じだと言うこと。


「私は赦されている」は、もうどこにいてもすべて赦されているのだ。


私は赦されているは最強だ。


恐れるものがない。

赦されているから、攻撃されるわけがない。

だから防衛なんて思いもつかない。





帰り際、何人かに飲みに行かない?って誘ってみた。

みんなに断られて一人帰ってくる。


高尾に着いたらなんか一飲みして帰ろう。どこへ行く?

ワクワクしながら駅を出る。


しかしお目当てのお店は人でいっぱい。

諦めて駅前のカレーとビールで。。。

と思ったらラストオーダーを過ぎていた。

まだ6時過ぎなのに!さすが高尾(笑)


しかたなく改札横のお店でおいなりさんとおはぎを買う。

半額だった!


うちに帰って前日作ってあったお漬物と市販の煮豆とおいなりさんとおはぎで晩酌。


それだけ聞くとなんだか寂しい晩酌だが、

なんだか知らんが嬉しくて楽しくて、ニヤニヤしながら過ごした。



それがミニフェスからの最大のお土産だった。




愛さん、コオさん、石田佳子さん、そらさん、はぎわらえりこさん、エイミーさん、

それにスタッフの皆さん。


みんなほとんど一度しか会ってない、

もしくは一度も会ってないにも関わらず、

本当に親しくお話ししてくださいました。


そしてあの場所にいたすべての人たちに、ありがとう!と感謝の気持ちを送ります。








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2025年11月17日月曜日

回り燈籠

 

「山越え」より

朝起きる。

心は静かだ。


心がこんなに静かになるなんて、思いもしなかった。


それまでは、朝目が覚めた瞬間から、

その日のやらなければいけないことや漠然とした不安などが津波のように襲ってきて、

爆音の中で、背中を誰かにつっつかれて

闇雲に前のめりに走るような焦燥感に駆られて生きてきた。


3年ぐらい前だったか、目が覚めた時、

3分ぐらい心の声が何もしない時があった。

その沈黙に圧倒された。


その静けさの安堵感に、心が静かになるって

こんなことなのかと驚かされたことがあったが、

その後ゆっくりと、本当にゆっくりと、

気づかれないようにしているかのごとく、心は静かになっていった。


今は思う。

心の声だけが人を不安にさせていたんだと。

心はずっと時間に縛られていた。

今ではなく、未来と過去を行ったり来たりさせていた。


その声を信じて「そうだ。今やらないでどうする。今でしょ!」とか

「何をぼーっとしている!今のうちにやっておかなければ後でどうなるかわからない!」


その声と一緒になって生きてきたことが、

どれほど自分を傷つけて痛めつけてきたことか、今ははっきりとわかる。



業況は何も変わっていない。

相変わらず何の保証もない、その日暮らしの生活。

だけどそれについての将来への不安が消えている。


それよりも未来のことを考えなくなった。

未来、それ自体が妄想だった。


一週間後の未来は、今である。

10年後の未来も、今である。


いつも今でしかない。

しかし明日のために備えることは、今を消している。

今というとてつもない存在をなきものにしている。


それは宝石が目の前にあるのにそれを見ないで、

その先の何もないところばかりを見ているような感じ。






昔、回り燈籠みたいなものあったよね。

蝋燭の光で、くるくる回転する影絵。

その絵の中で時間を追いかけている人影。


それを眺めているうちに自分もその人影になってしまい、時間を追いかける。

でもずっと同じところを回り続けているんだ。

キリのない時間競争。やがて蝋燭は消え、その影絵も止まる。


それが「人生」というものなのかもしれない。


でもそれを見ている存在がいる。

それが本当の私。


回り燈籠の人影は「夢の主人公」。

でもそれを見ているのは、「夢を見ているもの」。


「時間」は、回り燈籠の中にだけある。

回り燈籠を見ている側に、時間は存在しない。


今にいるとは、そういうことなのかもしれない。

一緒に回るのではなく、その回っているものを見ている側。

けしてそれに巻き込まれない。


そこから見る夢の世界はどんなだろう。

きっと美しいに違いない。







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