2023年7月6日木曜日

どうにかしろ人生


 

もうコントロールしなくていいんだ。。。


そう思った時、ふわっと肩の荷が下りた。


人生62年。

思えばどうにかしてこれを変えねば!どうにかしてもっといい方向に向けねば!

と、どうにかしろ人生だった。


それを「起こることが起こっているだけ」とか

「シナリオどおり」とか

「もうすでに終わっていることを再現フィルム見ているだけなのだ」

とか言われても、なんか納得がいかなかった。


起こっている出来事が気に入らないから、それをいじり倒すだけでなく、

そのこれから起こるであろう出来事を回避するために、

「思考が現実を作るなら、ならその思考を変えればいいじゃん!」と、ニューエイジ系もやってきた。


しかし一向に変わる様子もないし、ほとほと疲れ果てた。


やはりこれはスクリーンに映ったただの映像なのだ。

と、ぼーっとスクリーンを見つめる。


そしてある時あるブログに出会う。


「あ。。。」


と、冒頭の心持ちになったのだ。



確かに最近、そのままにしておくことが多くなった。

「ほっとこう」「まあ、収まるところに収まるんだろう」

「これは私にゃできねえ」「ただ観てよっと。。。」


多分、いい悪いの判断をすることが、

だんだん「これ、判断する意味あるの?」という思いに変わってきたからなのだろう。


この世のいい悪いの判断は、

横滑りの判断で、どこにも行き着かない。

どれも同じなんだなと思うようになり始めた。


今日はその判断で良くっても、明日はその判断は間違っている。

絶対的な判断なんかないじゃんかよ~。

それ、もともと判断できるものではなかった、

いや、そもそもこの世とは、まったく理屈の通らない世界なのだと。




例えばトカゲを自転車で引いてしまったとする。(実際引いてしまったんだがね)

すると私たちは何か悪いことでも起こるのではないか?と不吉なことを予想する。

そしてその後悪いことが起こったら、

あーあれはこのことの前触れだったんだ!と言って頭をかかえる。

そして今度こそ悪いことが起こらないように、前触れをいち早く察知して、

その悪いことを回避するのだ!と考える。


こうやって、あらゆることを何かの前兆として見始める。

これは別の言い方をすれば、身構えるということでもある。

(それこそが心を小さくさせているのではないか?)


この世界は突然悪いことが起こってくる恐ろしい世界だから、

それをなんとか回避するためにあの手この手を考える。

ニューエイジ系もまたその一つ。自己啓発もまたその一つ。


これが私のコントロール大作戦だった。


でもトカゲを引いたことは、次の悪いこととは繋がっていないとしたら?

病気をしたことが、何か自分が悪いことをしたことの罰ではなかったとしたら?


その起こっていることを意味づけするのをやめてみたら?


私たちは意味づけすることが好きだ。

その意味づけによって、嫌なことを回避することができる絶対的な方法を探しているのだ。


でもこれが起こったから、こうなったという意味づけが、


これが起こった。

次にこれが起こった。

以上!

だったとしたら。


繋げて考えない。


ここで「シナリオだから」とか

「起こることが起こっているだけ」とか

「すでに撮り終わったフィルムを再現している」ということが俄然迫ってくる。



ただ現れてくるものを、現れてくるままにほっておく。

すでに現れているものは、私が見たいと願ったものを見せてくれているのだ。


であるならば、これを変えることに躍起になる必要があるのか?

だって願ったものを見ているのだから。


そしてそれは、願ったものを変えようが、変えまいが、

どっちに転んでも同じことだと気づいていく。


その現象に何の判断もせず、赦し、消えて行くままに放っておく。



これは私の心から出た、愛おしい結果なのだ。




絵:コージーミステリー表紙イラスト







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