2011年12月5日月曜日

頭はテレビのブラウン管

私たちの監獄から抜け出すには、私たち自身が、自分自身から解放されなければいけない。
そのためには、自分が心の手かせ足かせでがんじがらめになっていることに気がつく必要がある。その手かせ足かせとは「過去」である。

私たちの頭はテレビのようだ。
過去自分の身に起ったこと、見たこと、聞いたこと、感じたこと、すべてをこのブラウン管の中に内蔵してある。その映像を時間の経過関係なく、支離滅裂にひたすら垂れ流し状態にしているのが、私たちの思考なのだ。その垂れ流し状態の映像を見続けているのも、また私たち自身なのだ。そしてそれぞれの映像を見るたび、そのときの感情を呼び起こす。「ああ、そうそう、あのときはああだった」「ああ、あれもそう、あんときはめっちゃ腹立ったなあ」
これ、何かに似ていないか?
牛の反芻。。。
言葉自動発令機は、そのまま過去自動映写機でもある。

私たちは目の前にいる人や風景をそのまま見ているのではなく、過去にあった出来事を通して見ている。奥さんを見る時、今目の前で喋っている奥さんをそのまま見ているのではなく、彼女が過去にあなたにしたことや言ったことを思い出している。そのフィルターを通して彼女を見ているのだ。

たとえば、
「ゴミ、出しといてね」と彼女が言ったとする。
すると心の中は、ああめんどくさいな、と瞬間反応する。
事実は、奥さんがゴミを出すように言った、それだけなのだ。だが心は過去にあったイヤなことを思い出している。「何それ!それじゃないでしょ!こっちのゴミ出してっていっといたのに!ったくもう、あんたって人はたよりないんだから!」
とかいわれたことをぷちっと思い出してしまうのだ。
だから面倒くさいなと思う。重い心で、重いゴミをずるずると出す。

そういうことが日常茶飯事につぎつぎとおこる。ぷちぷちとおこる。

反対に、過去に「あらっ。上手ね。さすがだわ。上手にゴミ出しできる人!」なんて言われていたら、その人は面倒くさいなとは思わず、嬉々としてゴミを出すはずだ。

だがどっちにしろ私たちは絶えず過去というものに縛られている。過去というフィルターを通して今を見ている。
私たちは今に生きているのではないのだ。過去に生きているのだ。それが手かせ足かせになって私たちを苦しめている。

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

きっと苦しむのは、自分の刷り込まれた価値観と違った文化(=価値観)と出会ったとき。
一人で暮らしてれば、価値観は破綻しないので安定。でも、それはそれで、不安。
他人同士が暮らす以上、それは覚悟しなくちゃ。人間はいつも不安定なんです。

つくし さんのコメント...

自分の刷り込まれた価値観と、違う価値観が出会った時。まさにそうです。くるしいよね。
お互いちっちゃいときからもらって来た価値観が絶対的だとおもっている。
夫婦っちゅうのんは、そのお互いの条件付けへの反応に、お互いが気がつくことのために一緒にいたりするんかもしれん。