2011年9月24日土曜日

人間の心の中だけが無秩序




この世に現れて来るものは、すべて秩序があるのではないだろうか。

朝そんなことを考えた。人生いろんな事がある。突然突発的なこともおこる。病気にもなる。台風もやってくるし、地震もおこる。
しかしそれらはすべて秩序だった事で、必然なのかもしれない。おこる出来事は、摂理にそって整えられていく過程であって、決して無秩序におこる事ではないのではないか。

この世は無秩序に問題がおこるのではない。。。
だとすると、なぜ人間はこうまでも不幸なのか。それはたったひとつ、人間の心の中が無秩序だからなのではないだろうか。。。そんなふうに思ったとき、心がぞくっとした。

問題ということばには、これはいいことである、これはわるいことである。という二つの意識がある。それはある種のものを基準とおいて、それに対して、悪い事といいことという判断が下される。がいして問題という言葉には、これは悪い事であるという意味が含まれている。では自然界にこれはいいことであるというものと、これはわるいことである、というものがあるのだろうか。

台風が突風を起こし、木をなぎ倒す。これはわるいことだろうか。
大木がなぎ倒されたあとは、その地面に光が当たり始め、そこに眠っていた種が芽吹き始める。その大木は微生物に分解され、栄養となって他の植物にエネルギーを与えていく。ということは、いいことなんだろうか。
しかしこの木が民家の裏にあって、家を呑み込んで倒れたらどうなるのだろうか。わるいことなのだろうか。
いやしかし、その大木が倒れることによって新しい芽が吹き始め、これはいいことなのだ。と、いうのだろうか。

結局それは単に人間が言う、いいことと、わるいことなのだ。自然界には、「いいこと」も「わるいこと」もない。ただ順々に摂理が働き、時とともに変化していく。これは無秩序なのだろうか。私には秩序のように思える。

今、放射能をめぐって矛盾する問題が浮上している。被災地を助けるために企画されるイベントが、放射能がまき散らされるといって中止される。これは困った人を助けたいという思いと、面倒なことは避けたいという思いが渾然一体となった、今の人々の心の葛藤がよく現れている。
困っている人を助けることはいいことで、放射能はわるいことである、という考えがごっちゃに入っている。

私たちは小さな時から、これはいいこと、それはわるいこと、と繰り返し教えられて来た。だがそれは人間が生き延びるために考えだされた基準である。私たちはその基準にがんじがらめにされている。

今朝、長いことほっておかれた扇風機を片付けた。
水で濡らした雑巾で扇風機をふく。こんな単純な行為が私には恐ろしかった。なぜなら、扇風機をホコリだらけにするあなたはいけない人、と自分で思っていたからだ。だから見て見ぬ振りをしてほっておいたのだ。いつもの私なら、ざっとふいてさっと片付ける。それは見ないようにしてあわてて片付けるというような心持ちだった。心の中に罪悪感を抱えつつ。
しかし今日はちがった。心は静かなままだった。それは多分、自分の中に非難がなかったからだ。これはいいこと、これはわるいこと、という考えがなかったのだ。

自分の中にジャッジがないと、それをそのまま見ることができる。そのまま受け止めると、行為は自然に動く。「問題」がおこったとき、「これはわるいことだ」「これはたいへんだ」と、普通はパニクるもんだ。しかしそれは秩序なのだと思えたなら、そのときその人はその出来事をただ受け止め、必要な行為を必要に応じて即座に動くのではないだろうか。それがまさに秩序だった行為なのかもしれない。

なあーんて思ったんだ。
そうはいいつつも、いざ自分に大きなことが降り掛かると、きっとパニクるだろうな。だけど今朝考えたものは、何かヒントを教えてもらった気がするんだな。


絵:「MF新書」表紙イラスト/江戸将軍が見た地球

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