2011年6月11日土曜日

母のマイブームつづき

昨日のつづき

はよう歩かんとという言葉の後ろに、私は速く歩けないという信念が張り付いている。そしてそれではイヤだ!という拒絶がある。つまり自分が、現実ある姿ではイヤだと言っているのだ。自分自身をイヤだイヤだと言い続けて暮らすのと、自分自身の欠点をそこまで気にしないのとでは、疲労の仕方が違う。彼女は四六時中自分の身体の気に入らないところを意識し続け、それに抵抗し、ハッパをかけ続けている。
「朝起きてからすぐ?」と私。
「そ。今でも朝起きてからすぐに『いや!はよう動かんと!』って言うよ」

私にはその言葉がよけいに彼女の身体を重く動かなくさせているように見える。彼女があの言葉を呪文として唱えなかったらどうなっていたのだろうとは、憶測してもしかたがない。
それよりも、それによって心が絶えず理想と現実のギャップに苦しむ事は、何を意味するのだろうか。歩きたい!という理想から、歩けない!という現実。それを起きているあいだ中、身体を動かそう、喋ろうとする瞬間にも、絶えずその「いやな」現実を見せつけられる。この心労ははかりしれない。

私は自分が自己嫌悪する事によって絶えず自分を痛めつけて気をもんで、心身ともに疲れていた自分を思い出す。彼女も心で考えるマイブームは違っていても、私と全く同じ事をやっている。


人は、たえず、自分の中で非難と正当化をくりかえしている。それは少しでも自分が成長しようとするがゆえに、自分にゲキを飛ばすことである。日本人は特に勤勉である。勤勉であるが故に、自分にも人にも厳しくなる。そして絶えず理想と現実の大きな開きを感じて暮らすことになる。
それのどこが重要なのだろうか。
人の悪いところを見て「あいつはだめだ」といい、「それに比べて私は。。」といい気分になり、あるときは「わたしはだめだ」といい、「それに比べて彼女は。。。」と言い続ける心。人はそれぞれまったくちがう最重要項目をもっている。それは生まれてきた環境、与えられてきた教え、価値観、そして経験によって作り上げて来たそのひとならではのパターン。

少なくとも私にとって、自分への自己嫌悪、自己批判は、ちょっとは成長はあるにしても、むしろ自分を小さくさせる事の方が多かった。しかし「自己嫌悪自己批判していないと、私はろくな事をしない!」と思い込んでいたので、自分への自己批判をやめる事は出来なかった。
だが、あるとき、自分の考えがいつも同じところでぐるぐる回っているのに気がついた。そしてそれに心が振り回され、どんだけ疲れ果てているのかも。まわりの事に気をもんで、もんで、もんで、便所のチリ紙のように、よれよれになっている自分の心に気がついたのであった。
「アホちゃうか。。。」
そのときから、自己嫌悪する自分を意識するようになった。自己嫌悪や自己批判が始まると、「あ、今自己嫌悪している。。」とその心を見つめるのだ。じっとその様子をうかがうと、自己嫌悪しようとする心が止まってしまう。「どーした?もっと自己嫌悪しなよ」とそそのかす。ところが、自己嫌悪はだれもいないところでやるもんで(なんかみたいに)、見られたら出来なくなるのだ。。。
それから私はあまり疲れなくなった。過去の失敗にとらわれなくなった。それと比例して、身体が疲れなくなった。


母は、あいかわらずマイブームに熱中している。
心は自動的にいつものパターンを繰り返したがる。なぜか。それが心のクセなのだ。心とはそういう風に、つねに何かにしがみついて、ここに今生きている事を実感したがっている。しかしそれがとてつもない疲労感をあたえているのだ。

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

難しい話は、わらしには良くわかりましぇん・・。
が、自分の呪縛の中で生きるのも、ある意味
楽な生き方なのかなぁって・・。
呪縛を乗り越えた世界にも、やっぱ、果てし
なく、呪縛はあるような気がするし・・。
私ゃ、酒飲める理由さえ発見できれば、呪縛も
肴にしますぜ・・・。
しかし、お母さんにとって、よっぽどイヤなん
でしょうね・・・どっちも。

つくし さんのコメント...

そうなのだ。呪縛の中で生きるのは楽なのだ。生き方は誰かが教えてくれるので、誰かのやる通りやる。そーすれば、誰にとがめられる事もない。みんなで渡れば怖くないし。

やまんばはなんつーか、その自分で自分を呪縛しているのんがやなんですね。一人監獄状態?
んで結果、一人はぐれもんです。。ぐしゅ。