2011年1月18日火曜日
努力はいらない
努力をする。
というのは、当たり前のこととされているが、努力をすることはすなわち、今の状況がいけないと思っているから、そこから脱出するために行われる行為である(めんどくさいいいかただな)。
私たちはたえず、過去の反省から未来を想定して今を努力する。別な言い方をすると、私たちは今を見てはいない。今を見るのは怖い。なぜか。それは今ここにあることが「ダメ」なことだからだ。年をとること、収入の少なさ、不健康なこと、ダンナの不満、等々。「今」はとにかく気に入らないことだらけ。その気に入らないことだらけの今ある現実の自分をまともに見るのはつらい。だから努力をするという行為によって今から逃げている。
努力が逃げることだとは誰も思わないとおもう。努力は美徳で賞賛すべきもの。必死も一所懸命もがんばることも、この世ではいいこと、とされている。なおがんばればえらいし、もっと必死になることもえらい。
「私、がんばりましたあ~」というと、
「えらいっ!」とほめてもらえる。
そうやって人は今ある自分をイケナイことであると思い込まされて来たのだ。
こっこのままでは、私はいけないわ。なんとかしなきゃ。そう、そうよ、まず努力よ。努力していれば何とかなるわ。
と、心で思い込む。
今ある自分を見るという行為が恐ろしいので、「努力する」という行為でもって、見る行為を努力するという行為にすり替えているのだ。これではいつまでたっても自分を見ることができないままだ。
お化けがいる!と思い込んで手で顔を隠し見ないようにする。怖い怖いと思えば思うほど、そのお化けの存在は大きくなる。しかし思い切って手を離し、それを見るという行為をすると、それは消えてなくなる。心が怖い怖いと恐怖を増幅させているだけなのだ。それはお化けは恐いという条件づけからきているからだ。
私たちは小さい時から、それはいけない、これはいけないと教えられて来た。何かやったとき、「こらあ~!」とおこられてきた。だから自分自身を肯定できないのかもしれない。
人はひとりひとり全く違う性質を持っている。なのに世間は「あの人のようになれ!」と誰か別の人を指差してマネしろというのだ。しかし世間でいわれているその「えらい人」は、その人だからできたことで、わたしにゃできないはずだ。なのにそのようになるために努力をしろという。考えたらむちゃくちゃな話じゃないか。
例えば、私が今までやって来たことを、誰かにマネしろというようなもんだ。そんなことできるわけがない。状況も違えば感覚も違う。しかしいたいけな子供たちは、大人がいうままに、あの人のようにならなければいけないと信じ込むのだ。それで今ある自分はダメで、あの人のようになるためには努力しなければいけないとおもわされてきたのだ。
努力する行為は、今の自分を否定するところからはじまる。どうして私たちはいつも他の人にならなければいけないのだろうか。どうして私たちは自分を否定しなければいけないのだろうか。そんな人生の何が楽しいのだろうか。たとえその「えらい人」のマネができたとしても、そのような意識の状態では、また別の「えらい人」を捜し出してそれを目標にする。そうやっていつまでたっても自分自身でいられないのだ。
努力なんかいらない。
自分であるには理想なんていらない。理想の姿の自分なんてこの世にはない。それは誰かの姿を追いかけているだけだ。私ではない。
私になるためには、私自身を見なければいけない。今ここにある自分の姿を真正面から何の非難もせず、ただじっと見るのだ。
お化けのように見たくない自分自身の姿は、それを直視する行為によって消えていく。その後ろにその人本来の無限の可能性が隠れている。
絵:「3秒で場をつかむ技術」表紙イラスト
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2 件のコメント:
努力しなくていい。というのは、なかなかできないですなぁ・・。言い訳できないから、相当厳しい人生になると思います。
どこかで読みましたが、東大→官僚系の秀才たちは、無駄な努力をせずに、先人の成功例を忠実に学んで、その通りにするそうですね。山登りするのに、必ず登山道を使う。寄り道しない。ということだそうです。私の子供の学校は、それをしないで、自分たちで考えて、苦労する過程を大事にしてます。だから、受験勉強的には遅れてしまうんですけどね。
東大の官僚系の秀才たちはそんな全く個人を生かさないアホみたいなことことするんですか。なんだか気の毒だなあ。
それは無駄な努力しないというより、単なるロボットを生産しているんだなあ。
その点、ぱぱさんの子供たちは自分を生きてるよね。ぱぱさんの教育のたまものだよ!
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