
きのう、面白い記事を読んだ。
クマにおそわれて、死んだフリして助かった58才のおばちゃんの話だ。
それによると、イエローストーン近くの公園でテントはって寝てたらいきなり腕をかまれた。骨が折れる音がして悲鳴を上げたら、それに怒ってさらに歯を食い込ませて来た。おばちゃんは死んだフリしようと思った。ぬいぐるみの人形のようにすべての筋肉をだらりとさせた。身体をリラックスすると、クマのあごから力が抜けるのが分り、間もなくおばチャンを離して去っていったそうな。
アメリカでクマといったら、グルズリーか?めちゃくちゃおっとろしー話だ。でもこの話は何かすごい大事な事を言っている気がする。おばちゃんが悲鳴をあげたら、それに反応してさらに攻撃を仕掛けて来た。しかし、力を抜いたら攻撃は終わったのだ。おばちゃんは恐怖によって身体がこわばり、それに抵抗する。しかしその抵抗をやめた途端、クマにも攻撃する意識が消えたのだ。
犬もそうだ。悲鳴を上げると総攻撃がはじまる。喧嘩もそうだ。抵抗すると殴りたくなる。ウチのトーちゃんもそうだった。ちょっとでも抵抗すると何度も殴りつけて来る。しかし抵抗しないで力を抜いて殴られるままにすると、一回で終わるのだ。生き物は相手次第で攻撃欲が変わるのではないだろうか。
これはすべての事に通じている気がする。
痛みは抵抗するとなおさら痛みが増す。しかし力を抜いて痛みを冷静に観察していると消えていくのだ。痛いと人はなんとかしなきゃとおもう。そのとききっと身体に力が入っている。からだがこわばって痛みに抵抗を始めるのだ。それは動物的な本能かもしれないが、私はそれは痛みはイケナイことと思い込んでいる教育からも来ている気がする。
先日も友だちがリュウマチにかかった話を聞いて、色々調べていたら、痛みは身体が治している最中なのだという話に出会った。だからその痛みを薬で取り除くのは、治すという方向が違うと。身体はおかしい部分を自力で治そうとしているのだ。それをニンゲンの頭がいろんな事を考えて、痛みを取る方向にだけ向かい、それによってまた身体がバランスを崩し、二重三重の苦しみを自分に与えているのだ。
肩が凝ったら、肩をまわしたり、さすったり、もんだり、いろんな事をする。けどそれも一種の抵抗だ。その痛みがイヤだからなんとかして取り除こうとするのだ。最近、私はそれをやめた。肩が凝ったら、そのままにしておく。もんでも痛さがもっと大きくなるだけなんだもん。肩こりとリュウマチは次元が違いすぎる!と怒られそうだ。でも何でも事の始まりは些細な事からはじまるではないか。それを「うわ〜っ!たいへんだあ〜っ!」って、おおさわぎするから、どんどん事が大きくなっていく。クマに襲われたおばちゃんは、悲鳴を上げたとき、さらにかまれて冷静になった。普通の人だったらもっと大騒ぎして抵抗しまくるだろう。そして今は亡き人になる。
何かが起きた瞬間、どう対処するかによってそこから先の運命が変わっていく。誰でも何か起こったら一瞬ドキッとして抵抗する。しかしそこから先は心の問題なのではないだろうか。こんな事は誰も教育してくれない。そんな教育なんて聞いた事ないが、人はあまりにも自分の心の動きに鈍感だ。この心と言う道具をどう使うかによって、絶対的だと思っているものががらっと変わるとしたら?
日頃から痛みにも不安にも抵抗しないで、心を静める習慣を身につけていると、世の中の事はきっと切り抜けられる事だらけなんではないだろうか。
災難にあったおばちゃんは「クマを恐れてはいない。敬意を持っている」と言った。その言葉に彼女の謙虚な気持ちが表れている。
何でも「死んだ気になってやる」と切り抜けられたりするではないか。たぶんこの死んだ気になってと言うのは、必死になってというのではなく、ホントは力を抜いてしまってということなのではないだろうか。
死んだフリは偉大な行為なのだ。
絵:COOPけんぽ表紙「アサガオの妖精?」