2013年10月19日土曜日

ありえねえ能力なのか?



サヴァン症候群という人たちがいる。彼らは時々特殊な能力を発揮するという。

たとえば一度ピアノ曲を耳にすると、それをそのまま再現してしまう。そしてその記憶はずっと残る。いつどこで何を聞いたのか、それを演奏したのか、事細かに覚えているのだそうだ。

その人たちが特殊であって、わしら凡人にはできるわけがない。
だははー、だよなー。
しかし「アナスタシア」の本の中に出て来る彼女の能力も同じだった。たった一度聞いた歌を再現して歌っていた。

わしらは、ありえない才能を、「それはサヴァン症候群の人たちだから」ということでくくってしまう。それはひょっとしたら、わしにもできるかも?とはおもわないで、「はいはいはい。彼らは特殊だから」と、それ以上自分に照らし合わせて考えない。

それは「自分にはできない」と思っているから、できないんだったりして。

アナスタシアは、食べ物は指をぱちんと鳴らせばリスがもってきてくれると信じているから、リスがもってきてくれる。
アナスタシアは、一度聞いたら覚えている、と思っているから覚えている。
アナスタシアは、オオカミと遊べるっておもってるから、遊べる。
アナスタシアは、遠くにいる人の行動やおもっていることを見れるとおもっているから、見れる。
彼女はサヴァン症候群ではないにもかかわらず。

するとこー言うんだ。
「アナスタシアは実在する人物ではない。あれは作り話だ」
それは「それはサヴァン症候群のひとだから」と、くくることと同じように。

だけどホントはそうなったらうれしい。そんな世界があったらどんだけたのしいか!


サヴァン症候群の人々と、アナスタシアの共通点はいったいなんだろう。

アナスタシアは、わしらのようないわゆる「常識」が入ってない。
アナスタシアの親と、わしらの親は、その教えたことがずいぶんとちがっていたようだ。

人はうまれてまもなく親に、
「この世はこーゆーもんだ。人はこーゆーもんだ」
と教えられる。
この影響は、実は強烈な作用がある。わしらはこの最初のインプットに気づく必要がある。

卑近な例でもーしわけないが、最近親の心理構造が、そのまんまやまんばのそれとまったくウリふたつだったことに気がついて愕然とした。どこで怖がるのか、どのポイントで心配するのか、などまったく同じだったのだ。
いったいどこが自分のオリジナルやねん!というくらい、同じ反応して右往左往している。。。

ためしに親の様子をじーっと観察してみるといい。
何が好きで何が嫌いか。
何がだいじで何がどーでもいいことか。
何にいつも怒っているか。
不安がっている材料は何か。
自分じゃないので、そうは感情的にならずに見れるはず。ひとごとのよーに薄情に見てみよう(笑)。
共通点はないかい?はたまたその親に抵抗するがごとく、反発的なもんはないかい?
いづれにせよ、大いに親の影響下にあることはまちがいない。自分が見えてくることうけあい。

その影響下において、人は苦労して食べ物をとって来るもんだと教えられれば、それはそーゆーもんだとおもう。人はゆびぱっちんすれば、リスがナッツをもってきてくれるといえば、そーゆーもんだとおもう。

たんにこれだけだったとしたら。。。。。?

サヴァン症候群の人々は、何かの理由で親の影響や「教え」がわしらのよーにバッチシおもいっきりインプットされずに育ち、人間がもっているもともとの能力そのままを表現しているだけだったとしたら。。。?

じゃあ、わしらはそのインプットを「解除」するだけでよかったりして。。。

えええ〜〜〜〜っ、ひえ~~~っ。

2013年10月18日金曜日

やまんば、ヒコーキになる



ないしょなんだけど、やまんばは心配性で恐がり。
船酔い、車酔い、ヒコーキ酔いは得意ちゅーの得意。
あろうことか、こないだ台風一過のあと風にあおられながらヒコーキに乗った。

「ひえ~こわいよこわい、よったらどーしよー、げろはいたらどーしよー。。。。
よし、とりあえずゲロハキ袋はここにある」
と、袋の場所を確認し、座席に着く。

びゆ~んと飛び上がった直後、がくんと降下する。。。!!!
ひっええええ~~。。。。
この先どーなることやら。。。。


恐怖に駆られながら、ふと名案を思いつく。(そらきた)
よし、ヒコーキになろう。

ヒコーキそのものになったら、ジェットコースター並みに上下左右するのはお茶の子さいさい。場合によっちゃくるんくるん回転したって、ヒコーキってばそんなもんじゃん。

その動きに抵抗するから怖いのだ。その動きを止めようとするから疲れるのだ。

やまんばは眼をつぶって、胸のまん中に意識をこらす。胸の真ん中にぽっかりと穴が空いた。そこはどこでもドアー~。そのゲートはどこへでもいけるし、何にでもなれる(そー信じている)。
やまんばの意識はそこからはいって、今乗ってるヒコーキさんと一体になった。

「ヒコーキさん、ヒコーキさん、乗っけてくれてありがとうねえ。これから一緒に羽田までいきましょう。そんでもって羽田の大地に無事に一緒に着陸しましょうーっ。ぶう~~~ん」

やまんばは自分もヒコーキになった気分になった。羽を広げて大空をたのしげに飛んでる気分になった。。。。

「間もなく着陸態勢に入ります」
というアナウンスで目が覚めた。

気がつくとゆらゆら揺れている。一瞬恐怖に陥るが、気を取り直す。
そーだ。私はヒコーキなのだ。
目をとじてヒコーキを思い出す。自分がヒコーキになると、上下することが怖くなくなる。だってヒコーキの足下はいつも空の上なんだもの。

イメージが膨らんで、一緒にフワフワと浮いてみたり、回転してみたり斜めに飛んでみたりした。なんておもしろいんだ。受け身になると怖いことも、能動的になると怖くない。

無事、一緒に羽田の大地に降り立った。
出る前、座席に手をかけて、お礼を言った。


ヒコーキを出て空港を出口に向かって歩いている時、横に誰かの視線を感じる。振り向くとそこにはジェット機の正面が。
な、なんかこっちを見ている。。。

ここは空港だから山ほどヒコーキがある。なのになんでこの機体が気になるのか。。。
ヒコーキが止まっている場所のナンバーを見る。71番ゲート。間違いない。やまんばがさっき乗ってたヒコーキだった。

ちょっとびびる。明らかにこっちに視線を送っている。
ヒコーキは、私が意識で『一体』になったことを知っていた。。。

「ありがとね。」
人に見えないように、ちょこんと頭を下げた。


八王子に向かうリムジンバスから見た東京の街は、今まで見たこともないほど空気が晴れ渡って、まるでおもちゃの街のように遠くのビルまではっきりくっきりみえた。

2013年10月11日金曜日

アナスタシアぶっとび



最近『アナスタシア/響きわたるシベリア杉』という本を読んだ。
ぶっとんだ。ひっくりかえった。ひゃ~~~~~っ、の連続だった。


やまんばがずーっと人間に対して疑問に思っていたことを、あっけらかんと「ハイそーよ」と言ってくれたのであった。

アナスタシアはシベリアタイガの森にひとりで住む人間。服はチュニックという、まあ下着のよーなものだけ。家もなければ、お鍋もない。火もおこしたことなければ、あったかいお風呂に入ったこともない。
彼女に言わせれば、服というシェルターを着れば着るだけ人間は弱くなるそーだ。

日頃何食ってるかとゆーと、食べたい時にベリーとかつまむ。
そーかとおもうと、指をぱちんと鳴らせば、リスが高い木の上からスペシャルなスギの実をもってきてくれる。も一回ぱちんとならせば、皮を剥いでくれ、手を延ばせばその上に乗っかって、リスが口渡しで極上の実を口に運んでくれる。

な、な、なんじゃそりゃあ!なーーーんにもせんでええやんけ。

わしらはおまんま食うために死ぬほどフンソウする。やまんばは日々畑でフンソウする。なのに彼女は、指をぱちんと鳴らすだけでおまんまが食えるのだ。ゆびぱっちん。

彼女は言う。
「この地球は人間のためにすべて用意されている。」
リスは冬のあいだに食べる量の何倍も溜め込む。それを人間に食べてもらうのもまた彼らのよろこびなのだという。


やまんばはねえ。人間ってどーしよーもない生き物だって思ってたの。どー見ても、冷静に見ても、ひいき目に見ても、人間だけじゃん、地球壊してるの。植物も動物も昆虫もみーんなこの地球でバランスを保っている。肉食獣だって、むやみやたらに殺さない。
なのに人間ったらヨー。壊す壊す、使いつくす、いらんもん作りまくる、あげくにやっかいなもんを作っといて
「どこに処理していーかわかんなあーい」
と、ほっぽっておく。
おいおい。おまえら、どーすんだよー、それ。
ってなかんじ。
だけど人間のために用意されてるだあ?どんだけ甘やかしてんだよ、地球さんよ。

でもねえ。
やまんばがずーっと気にしている「沖縄のぼたもちの話」となーんか通じてるんだよなあ。

『あるところに男の子と女の子がいました。彼らは毎日天から降ってくるぼたもちを食べてたのしく生きていました。
あるときふと、「このぼたもちが明日天から降ってこなくなったらどうしよう。。。」
と不安になりました。
そこで彼らは二つのうち一つのぼたもちを明日のために残し、もう一つを二人で分け合って食べました。
それからぼたもちは、二度と天から降ってきませんでした。
おしまい。』

ってなはなし。
ふつー、お伽噺って、ハッピーエンドで終わるじゃん。なのにこの終わりかたはなんじゃ?
つまりその先は、まるでエデンの園から追放されたアダムとイブのごとく、
「それからは二人で食べ物を探して歩きました。」とか「畑を耕して食べるために必死で働きました」ってなことになったって、なにげに言ってるわけじゃん。

これってなによ?

この話が何かのメッセージだとするならば、心に浮かんだ疑問がすべてを変えてしまったということじゃないか?
本当はアナスタシアのいうように、すべては人間のために用意されているんだが、それを
「ほんまにや?」と思った瞬間、
「あ、そーお?」といって、
「ならばそのように」
と、天が人間が思ったように現してくれているのだ。。。としたら。。。。?

じゃあじゃあ、逆もまたしかりってことになる。。。

明日のために残すことは今のニンゲンにとって美徳でさえある。だがこの視点を別のところに変えれば、人生を、天を、信じないことでもある。
ま、ある意味、すごい傲慢。。。

ひょっとしたら、人間は「ぼく、自分で生きてみる!」
と、天から独立してみたかったんじゃないだろうか。

だけど色々やって、ぐちゃぐちゃになったのが今の人間世界。
え~ん、どーすりゃいーのよ~、と泣いているところを、
「もしもし?そろそろこっちむいてみなよ」
って、向く方向を教えてくれてんのが、アナスタシアだった。
本当はニンゲンってすごい存在なんだよって、思い出させてくれている。

結局この矛盾だらけの世界は、
「これが明日降ってこなかったらどーしよ?」
という自我が引き起こした悲劇(喜劇?)だったんか?



2013年10月10日木曜日

何で肥料入れねえんだよ!



近所の畑やっているオヤジさんにのらぼうの種をあげた。

オヤジさんはそこらのボス的な存在。ここら辺はぶっきらぼうで口の悪いオヤジがいっぱいいるが、その中でもひときわな存在。

「オイ、のらぼうの種あるんか?おれんところの種はよお、一昨年のヤツで、こないだ蒔いたんだけどちっとも芽が出ねえんだ。おまえんところにあるんなら、くれよ」
「あるけど。。。」

やまんばの心の中でちらっとうかぶ。
今年とったのらぼうの種は、蒔いてもいないのに畑の外に勝手に出てきたホントに野良なヤツ。巨大になってそこらを凌駕してたから、その種を取ってみたのだ。
だけど内心ビクビクしてた。

「あの、、、ホントにこれ、のらぼうかどうか分んないよ。。。ちがってたらごめん。。」
「あん?おめえ、ちがってたらしょうちしねえぞ!」
ひっ、ひえ~~~~~っ!

後日、勇気をフリシボって聞いてみる。
「のらぼう、芽でましたあ?」
「ええ?おお、でたよ、でた。」
「のらぼうだったあ?」
「おう、ありゃあ、そうだろう」
ほーっ。

数日たって、彼が別の人にもらったというのらぼう系の別の苗をくれた。
それから自分の畑に呼んで、その苗とやまんばがあげたのらぼうの苗を見せてくれた。
他からもらったというのらぼうの若苗は虫に食われていた。
ウチの野良はやはり勝手に出ただけあって、まったく虫に食われてなかった。
だけどこの種を「勝手に外に出たヤツです」とは口が裂けてもいえねえ〜。

「おい。おめえんところは、肥料も農薬もホントにやってねえのかよ」
「うん。」
「ここいらじゃあ、肥料あげずには育たねえはずなんだが。。。」
ひとり言のようにいう。
「いやいや、じぇんじぇんそだってないっすよー」
がはは~とわらうやまんば。

「で?何で肥料あげねえんだ」
「え?いや、その、あの、。。」
と、バタバタとその場をとりつくろうかのように色々いいわけする私。

「。。。。だ、か、ら、よお!何で肥料入れねえんだって聞いてんだよ!」
ひっ、ひえ~っ。ごまかしてんのバレた。

「わかりました。ショージキにいいます。」
やまんばはその理由をぜーんぶしゃべった。
ブルーベビー症候群の話や、腐る野菜と枯れる野菜の話、肥料に虫がよってくる話、それに農家が出した大量のチッ素が川に入り海にまで流れて生態系を変えている話。。。

おじさんは怒りもしないで、だまーって聞いてくれた。。。。
 
「じゃあよお。おめえ、化学肥料や農薬がいっぱい入ったスーパーの野菜なんかはどうなんでい。食わねえのか?」
「いえ。食います食います。気にしません。畑にないものはそこらのスーパーでフツーに買います」
「そこらへんはおおらかなんだな」
「私はただ実験したいんです。知りたいんです。自然の世界がそのままでこんなに豊かなこと。そこに人間が長いあいだに作りあげてきた野菜という植物にも同じように応用できるかどうかを」

おじさんは、ウチの交配種(つまり白菜とミズナが交配したわけのわからんヤツ)が巨大になっていたことを喜んで聞いていた。
「つまりそれはひょっとしたら交配に交配を重ねると、原種に戻るんかな。それはすごいことじゃないか」

ぶっきらぼうで口の悪いオヤジが、こんなにも柔らかい視点をもっていることにおどろいた。そういえば、彼は畑で作業をしている姿より、眺めて歩いている時間がほとんどだ。

別れ際、
「おう、また聞かせてくれよ」
と笑った。


2013年10月7日月曜日

わしらは空気を食べて生きてるの?



やまんばは畑で考える。

畑の植物は、枯れると土になる。
土になるけど、それもいっときのことで、そのうち水になる。水になると蒸発して空気にかえっていく。
やまんばはその畑の野菜をいただいている。お肉だって、もとは牛さんや豚さんが、やっぱり空気にかえる植物を食ってその身体を作っているではないか。
空気に返っていくものをわしは食って生きているのか?

科学はその土になって水になって空気になる間にでき上がる栄養素が変化して身体になるのだ、とかなんとかいう。
だけど最終的には消えてなくなるもんを食っているのだ。

それがねえ。ふしぎでたまらんのだ。
仙人はかすみ食って生きている、とかなんとかいう。
これ、ほんとのことだったりして。

この空気中には、たんに「酸素」というものがある。ということでかるく処理されているけれど、そのたんなる酸素とは、じつはニンゲンが気がつかない、物質だけでは証明できないなにかえたいのしれないエネルギーを持っているのではないだろうか。

この空気中にはわたしらの身体を維持するすごい英知があるんじゃないだろうか。
息吸って吐いてるこの呼吸も何らかのすごい英知でやっているのかもしれない。

いったいここにはなにがあるんだろう。



2013年10月4日金曜日

最近のやまんば流



最近のやまんばの種おろしはこうだ。

草ぼーぼーを根元から刈る。刈った草は畝のあいだの道におく。または気分で一カ所に山積みにする。
ちっこい4本にわかれた手鍬でちょんちょんと草の根っこをほりだす。それもまた畝の道にほりなげる。
これで勝手に畝の表面が、5センチほど耕されることになる。
ほっこりとした土を平らにして、種を入れる溝を掘る。種を仕込んで土をかぶせて、おもいっきり手で押える。または裸足になってその上をふむ。おわり。

裸足になって畝の上に立つとものすご~くきもちがいい。ふわんふわんなのだ。耕された畝は5センチほどのふかさなのに、身体の重みでぐ~んと深く沈み込む。5、6年のあいだに雑草達が土を柔らかくしてくれてんだろうか。


それまでは、自然農の川口さん流に耕さず、草の根もとらずやっていた。だけど土の表面は草の根っこに覆われて種を入れるのが難しいし、出てもまわりの草の勢いに押されて双葉はひょろひょろ。それもコオロギにあっという間に食われた。

その後、たんじゅん農法を知り、今度は耕して木のチップや草など炭素系のものを入れるのを試みる。
だけど草を刈ってその草をハミキリで細かくし(これがまた危ない作業で指切ったこともある)、畝の中にスキ込むことの、まーたいへんなことよ。木のチップはしばらく置いておかないとその効果がない。試しにチップをそのまま畝にばらまいてみたけれど、むしろ何も置いてないところの方が野菜は元気だった。
どっちにしろ、何かを入れ込むのは、タイミングが必要だと知る。
こんなむずかしーこと、やまんばにできるわけがない。

そんなとき、無肥料栽培を知る。
なんと、おそろしーことに、土に何も入れないでも野菜は育つという。
こーんなイイ話はないではないか!
見た目はまったく慣行農法と変わらない。ちゃんと耕耘機で耕して、ビニールマルチで草が生えないように覆う。他とちがうのは、そこに肥料も農薬も一切入ってないってこと!それでできるんだ!

それってどうよ。

つまりなにかい?野菜はどーやっても育つってことかい?
とするなら、問題は何よ。
ひっ、人かい。。。?
やばい。やまんばの人間性がばれちまうではないか。。。いや、たぶん、もうばれちまってるが。

とゆーことは、どーやってもそだつ。そだつもんはそだつ。そだたないもんはそだたない。(どんな理屈や)

とゆーことは、なにやってもいーんじゃないかー!
という結論にたっする。

んで、今のところ冒頭のやり方がマイブーム。
土の中には何も入れない。ビニールマルチはやりたくはない。
だけど草ははやかしたい。
だから気分で草マルチをしたかとおもうと、気分でなにもしない。(よーするに手抜きだな)
これから冬春にかけて草もはえるだろうが、土を暖めてくれるだろうし、ほとんどそのまま刈らずにほっておく。夏の盛りは刈るけれど。

その結果かなんかよー分らんが、コオロギにはほとんど食われなくなった。秋蒔きの葉ものや大根の葉も、白菜以外すべて育ってくれている。

植物って、なんかわしらに教えようとしているんだろーな。。



2013年10月3日木曜日

畑の皮はぎ



今年の夏は強烈だった。


畑はあっという間に草ぼーぼー。やまんばの背丈を超えた。




そこでやまんばは、けものの皮をはぐよーに、ひふ(土)ぎりぎりのところをのこぎり釜で刈っていく。くるくるとまるめながら。



するとどーだ。
あっというまになまっちろい柔肌(大地)がこつぜんとあらわれたではないか。



畑5年目にもなると(あれ?6年目だっけ?)獣の皮(草)のはぎ方も、どうにいってくるってもんでい。

やまんばはその毛を山と積んで、来年の土にするのだ。