2025年8月16日土曜日

考えろ

「山芋の花」和紙、水彩

 

ちっちゃい頃、変な子どもだった。


今立っている地面は、固いと思っているから私は立ってられる。

でも柔らかいと思った瞬間、底なし沼に足を踏み入れたように、

ズビズビ沈んでいって溺れてしまうかもしれないと思い、

必死で「地面は固い、地面は固い」と念仏を唱えていた。


壁だって、ひょっとしたらすり抜けられるかもしれない。

すり抜けている途中で、

「はっ!これは壁だった!」って気がついてしまって、

壁と自分の体が一体になってしまったらどうしようとドキドキした。


母親は段ボールでできたハリボテに見えて、

背中があるかどうか手を回して彼女の後ろを確認していた。


目の前にある風景は、私が見ているから存在するのであって、

見ていない後ろは真っ暗で何もない。

だからどうにかして後ろの真っ暗で何もない世界を見てみようと、

ものすごいスピードで何度も後ろを振り返ってみた。


しかし一向に真っ暗な何もない世界は見ることができなかった。

世界は私の振り返るスピードより相当な速さで出来上がるもんなのだなと納得した。




大人になって量子力学の話を聞いた時、これだと思った。

見るから現れる。見なかったら世界はない。


じゃあなんで見るのか。

信じているものを見ているのだ。


ラッキーなことに、私の心の底には「地面は固い」という信念と、

壁はすり抜けられないという信念があったから、悲劇は起きなかった。

母親の背中は、、、あってほしいという信念かな?



引き寄せの法則は、その量子力学を利用したものだが落とし穴があった。

信じているものをそう簡単には手放せない。


お金がないと信じている人が、お金があると信じることには無理がある。

アファメーションしたって無駄だろうなあ。

口で何万回唱えても、その心の底に「俺にはお金がない」と信じているからだ(だから「お金がない」が現れているのだが)。


私たちにはとんでもない量の信念がある。

その信念を解体するのはどうやったらいいのか。

それは無意識の領域にある。




私たちには大いなる欠乏感がある。

どんなにお金持ちであっても、別の欠乏感を持っている。

太ってるとか、健康でないとか、相手がいないとか。


この大いなる欠乏感を「あ~私欠乏感があるのね。」と言って、

それをポイッてできる人はほとんどいない。

信じているものはそう簡単には手放せない。


欠乏感って、自分はダメだという思いでもある。

まだまだだ。もっと手に入れなければ、もっと認められなければ、もっと、もっと。。。


私たちが苦しむのは、どんな状況であっても、

この自分はダメだという思いから、

苦しみを引き寄せているのだ。


引き寄せの法則はこれで成立!


どうして苦しむのか。

どうも私たちには自分がダメだと思いたいフシがある。

苦しまなければいけないのだ。

欠乏感があらねばならないのだ。


なんでか。

それが自分へのバツだから。


なんでか知らんが、私たちには大いなる謎の罪の意識があって、

その罪の思いのせいで、自分に罰を与え続けているのだ。


つまり罰を引き寄せているのだ!




「苦労しろ~、苦労しろ~。

そうじゃないとお前は地獄行きだ~」


そんな声が心の底で重低音で鳴り響いている。


つねに誰かに見張られている気がしないか?

「お天道様が見てるから、悪いこたあできねえ」とか。


ちゃんとしなきゃと思ったことないか?

こうあるべきだとか思ったことないか?


その根拠は?

誰かがそう言ったから。親にそう言われたから。

親は誰に?その親からだ(笑)。

そうやってひたすらループしているのだ。



地獄の閻魔様は、死んだ時、

どれだけいいことやってきたか、

どれだけ悪事を働いたか、

品定めをするそうじゃないか。


それ、本当に神様がやることかな。

そんなセコイ存在なのかな。


ひょっとしたら、そのセコイ神様は、自分なんじゃないか?

自分が自分を懲らしめるためにでっち上げた存在じゃないか?


マゾだ。

いや、サドだ。

(どっちも同じだ)


その自分いじめをしていることに気がつくことだ。


根拠のない罪に苛まれて、ひたすら罰を欲するって気違い沙汰だ。


私もひたすら自分いじめをしてきた。

はっきり言って狂気。


いじめたらええことあるって思ってきた。

苦あれば楽あり。

死んだ時、閻魔様に

「お前はかなり苦労してきたから、釜茹での刑ぐらいにしといてやろう」

と言われて、果たして私は嬉しいのだろうか。




神様は品定めするんだろうか。


デスバレーで出会った神様は、

と言っても姿を見たわけでもなく、

ただ『思い』がそこにあったんだ。

大きな大きな、とてつもなく大きな「愛」で私を包んでくれた。


愛を感じる時、何かの準備があったわけではない。

いいことをしてご褒美のようにやってくるわけでもない。

唐突に、何もしないでも、愛は降ってくる。



神は品定めをしない。

なんの条件もつけず、そのまんまで、何もしなくても、愛がある。


これ、ほんとに。

なんもいらないんだ。


条件つけてる神は自分が生み出した神。

自分に罪があると思いたいから罪を意識させるように作り上げた神。

これは同じところをぐるぐるとループさせる。

この物質世界を本物だと思わせるためのトリック。


でも無条件の神は、いつでもここにいる。

私たちがそこに焦点を当ててないだけなんだ。

忘れちゃっているだけなんだ。


肉眼で見えるものが本物だと思わせられちゃってるんだ。

肉眼で見えるもので苦しんで、

肉眼で見えるもので幸せになろうとする。


でもその幸せはいっときだけのもの。

花火のように消える。

だから次から次に追い求める。


そのことに気づくことが、

世界を別な視点で見ることができる。


考えろ。

感じることができたなら、

次は考えろ。


世界の矛盾を見つけろ。

おかしなループに気づけ。



もう自分で自分をいたぶらなくていいんだ。









和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


2 件のコメント:

結城 さんのコメント...

こめかみや後頭部の辺りがしびれてじわーっと温かくなりました。デスバレーでお会いしたという大いなる存在のおはなしを読んだ際に。雪山の露天風呂のような。店に居るのにちょっと泣きそうになりました。
なんというかわたしは善悪打算思考の中にいるときは、緊張生き残れるかなどソワソワします。欠乏不足から出る行動は自分も周りの方々も幸せにしないような気がします。
つくしさん今回も拝読出来てありがたい。

つくし さんのコメント...

結城さん、
いつも心のこもった、そして正直な思いを綴ってくれてありがとうございます。励みになります。
欠乏不足、つまり恐れからくる行動は混乱の中にいます。
だから周りも振り回すことになってしまう。
まずは自分が恐れていることに気づき、その恐れを受け入れるというか、赦すことです。
その恐れを感じてやることです。
それが自分を受け入れることにつながっている。
弱さも恐れも、ぜーんぶ受け入れてやってください。