ダンナを怒らせてしまったのだ。
私はいつもやらかしてしまう。猛烈に罪悪感が浮上する。
それに触発され、ダンナはさらに怒る。
すると今度は耐えきれなくなった私も怒る。
彼を激怒させた原因は私で、私がいけないのに、
耐えきれなくなって私も怒り出す。
この一連のドラマは私がずっとやってきた事だ。
その都度状況やカタチは違えど、心のパターンはまったく同じだった。
これはループしている自我劇場だ。
原因は私だと思っていたから、訳が分からなくなっていた。
私が怒りの原因さえ作らなければ、と。
だけどよく観察してみると、原因であるタネはなんでもよかったらしい。
空気でさえ原因にすることができる。
自我は「私は罪深い」と思わせるためになんでもする。
または「あいつは罪深い」でもいい。
どっちかが、誰かが悪いと思わせるのがいい。
そうすれば必ず摩擦が起こる。
そして冒頭の劇場空間が出現する。
これは実は無因性のものだ。
自我はその原因のないものを、誰かが怒るという結果を見せて、原因とする。
しかし本当は何も起こっていない。
「私」が、そう「見たい」と思っただけなのだ。
その「私」とは自我とくっついた私。
なぜならこの怒り、悲しみ、苦しみ、恐れがこの世界を維持するためのガソリンだからだ。
だから自我は焚きつける。
「やれ!もっといけ!ほら、そうだ!戦え!」
この一連の出来事を私は静けさの中で見た。
このループを何万回と繰り返してきた。
自我とくっついた私は夢の主人公となり、このループを永遠に繰り返す。
それに気がついたとき、夢を見る者の視点がやってくる。
そこには原因もなければ結果も存在しない。
左脳はひたすらこの世界の考えを繰り返す夢の主人公の考えなのかもしれない。
この世界をサバイバルして生き延びる考えにフォーカスされているのだから。
夢を見るものは、右脳なのかどうなのかわからない。
でも自我劇場から遠く離れている。
その劇場は存在していないことに気がついている。
安堵の中でお芝居を眺めている。
なぜならこれは作り物だと知っているから。
ドラマが始まるその一瞬を見極める。
それが夢の主人公に埋没していかないコツだ。
「死の夢」ではなく「癒しの夢」にしたい。
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