昨日ダンナとケンカになった。
お互いがお互いの言い分を主張する。
キリがないので「一度持ち帰って」社内(心内)で検討する。
落ち着いて考えると、実はどっちも正しかった。
それぞれの立場や、生き方や、人生経路をかんがみると、
そう反応してしかるべき理由がある。
まあ、人によっちゃあ、「そこまで反応しなくても。。。」
というものがあるだろうが、
それでもその人(私とダンナ)にとっては、
「そこまで反応しなくてはならない」バックボーンがあるのだ。
だから実はみんな「正しい」。
と、考えて気がつく。
そういえば、ケンカしている時、
心は「どっちかが正しい」というところに収めようとしていた。
自分がなぜあんなことを言ったのか、
どうしてそうせざるを得なかったのかと、
心の中で必死でエアー演説して、自分を正当化しようとするのだ。
自我は、「どちらかが正しい。ということはもう片方が間違っている」
というところに落ち着きたい。
正当化しようとする思いは、必ず相手を悪者にする。
自分は無垢で相手は悪者。被害者と加害者。
でも正当化しようとするってことは、
実はどっかで自分が悪いんではないか?という恐れがある。
だからこそそれを隠蔽するために必死でエアー演説するのだ(笑)。
これぞ自我のトリック。
その正当化は、「世界はあるぞ、リアルだぞ。
ほら、こんなに重くずっしりとのしかかってるじゃないか。
早く自分を正当化しないと、悪者に襲われるぞ」と。
言い争いをしたことで、自我がいかに分離したがっているかが見えた。
私とあなたは分かれているという分離の概念。
自我はいつでも、どっちか、なのだ。
ところが「ひとつである」というところに立つと、どっちも、なのだ。
同じひとつの心の中に、正しいものと正しくないものが一緒にいることは不可能だ。
相手に罪を見れば、自分に罪があることを証明し、
相手に愛を見れば、自分にも愛があることを証しする。
だって同じなのだから。
目の前に展開する現象を使って、
その分離しているかに見えるものは、
ただの妄想だよと教えてくれている。
罪ではなく、愛に立ち返るために、
そういう状況をそっと提示してくれている。
怒ってもいい。
ケンカして言い争いしてもいい。
そのあとはスッと下がって、通り過ぎる。
幻想は幻想として消えていく。
絵:コージーミステリー表紙イラスト
2 件のコメント:
で結果、仲直りしたのかな~~
麻里さん、
コメントありがとう〜。
もちろ〜ん!
仲直りしたよ。
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