もう少しで仕事が終わるから、終わったら友人を誘って、知り合いの梅林作業の手伝いに行こうと思った。
しかしいざ仕事が終わってみると、急に具合が悪くなる。立ってられない。こんな調子じゃ手伝いにも行けないし、午後から来ると言ってくれた友人にも悪い。どうしようかと迷ったが、何もせずになりゆきに任せることにする。
なりゆきに任せる。
一見無責任。だがしかしこれは叡智だ。
今まで自分でなんとかしなければいけないと一人奮闘してきた。しかし自分でなんとかしようとすればするほどドツボにはまる。さらにそれを埋めようと頑張ると底なし沼に。。。
これはいかがなものかと思い巡らしていたら、ある叡智がやってきた。
それは「ほっとけ」という神のご神託であった。
(ホトケは、この「ほっとけ」からきているのか?)
クラクラするからこたつでゴロゴロする。お日さんに当たりながら考える。
私は自分の罪悪感を大量放出させていた。
1手伝わなければいけないのに、手伝えない。
2人を誘ったのに、自分は働けない。
3そもそも仕事が終わったのに、なんで具合が悪くなる???
自我とともに考えれば、「あんたは死罪!」と言われる。
しかしここでもう一人の教師に聞く。
聖霊さん、私と一緒に考えてください。
。。。
ん?まてよ。
そもそも知り合いのところに手伝いに行かなければいけないという義務はない。
仕事が終わったんだもの、一人ゴロゴロこたつで寝てて何が悪い?
具合が悪けりゃ、寝てりゃあいいじゃあないか。
誘った友人にも連絡来てから考えればいいじゃないか。
なんだなんだ。何を問題にしてたんだ?
急に気楽になって、ゴロゴロすること2時間。退屈になって起き上がる。
ヒマだ。私、どおしたい?
体が勝手に支度をしていた。具合が悪かったことなんか忘れてる。
友人の作業道具も用意して現地に向かった。
誰もいない。手伝うつもりだった梅の枝も綺麗に整理されていた。
南向きの斜面でぼーっとする。
東からの風が冷たいが、お日様の心地よさがそれを忘れさせてくれる。
まだ1分咲きの梅の花の香りがほんのり漂ってくる。
線路を挟んだ向こう側に天神様の祠が見える。
菅原道真が読んだ句が思い出される。
「まさに、東風ふかば、匂いおこせよ梅の花。。。やな。
ちょと意味はちゃうか。あはは」
私は常に自分の落ち度を気にしていた。
絵を制作しているときは、何か問題はないか、悪い作品になっているのではないか、クライアントが求めるものは網羅できているか、、、。
仕事を終えやっとそのプレッシャーから解放されると、今度は別の落ち度を探している。
落ち度。罪。
罪を見つけては罪悪感と未来への恐れでオロオロして対処する。
しかし恐れの中での問題解決はドツボにハマる。これが私を長年苦しめてきた。
自我は罪をささやく。
「お前は悪いことをした。お前は罪人だ。この罪からは逃れられない。罰を受けて許しを乞え」
だがもう一人の教師に聞くと、
「あなたは無辜で神の子だ。神の子に罪はないし、罪は存在しない。」と必ず言う。
その言葉が真実だと頭ではわかっているが、ずっと自我の教えに耳を傾けてきた私は、油断しているとつい習慣で罪を探してしまう。
今朝もそうやって自我に耳を傾けていたのだ。
そこには何の喜びもない。何の解放も解決もない。ドツボと底なし沼があるだけだ。
梅の花の香りの中で大きく深呼吸し、
「ここに罪はあるか?」
と、自分に問う。
「ない」
自我とともにいるときには感じられない開放感があった。
突然ケータイが鳴る。
友人からかと思えば、ダンナからだった。
「今スタバ。なんか買っていくか?」
「カプチーノのトール!」
すぐ近くに別の友人が、山をスケッチをしているのに気がつき合流。
まもなく旦那がスタバからカプチーノを持ってやってくる。
すると出かけていた知り合いも帰ってきた。
夕日が山に沈むまで、微かな梅の花の匂いに包まれて、想定外の楽しい時間を過ごした。
絵:「梅の木とつた」
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