2018年9月26日水曜日

ビギナーズラック


庭の斜面にダイコン植えた。虫も食わずに元気。


ダイコン引っこ抜かれる。
落花生、食われる。
人参、引っこ抜かれる。
ジャガイモ、食われる。
トウモロコシ、食われる。
きゅうり。。なす。。。さつまいも。。。枝豆。。。

もー。
なに作っても、猿とたぬきに食われるやんけーー!
と、ふてくされていた。

ある日、庭を眺めていた。
「あ。庭には猿こねえし。たぬきもめったにこねえし(たまに来てるんかい!)」

ウチの庭は、はっきり言って畑にはまったくむかない。山に迫っていて、日があたらない。木だらけ。日陰だらけ。草のいきおいが強過ぎる。しかも急な斜面。
土もわけの分らん砂まじりの土。

やまんばは庭のあっちこっちのかたすみに、遊び心でダイコン、人参、落花生の種を蒔いてみた。
なぜか知らんがみんな元気に育っている。同じ時期に畑に撒いたダイコンは枯れ、何度も蒔き直しをしているありさまなのに。


片隅に植えた落花生。葉っぱのいきおいがいい。

小さなすきまに人参



これはいったいどゆこと!?
まったく肥料の入ってない、畑としてはほとんど機能を果たしていない場所に、元気に育つ野菜たち。

やまんばは、頭を抱えた。
そのとき畑でいちばん最初に種を蒔いた時のことを思いだした。あの時の爆発的な野菜たちの育ち方は半端なかった。しばらく放置されていた畑を開拓したので、たまりにたまっていた堆肥があってそうなった、ともいえる。

しかしこの二つの現象に共通点を見つけた。
ビギナーズラックだ。
物事の初心者がもっているとされる幸運のこと。

いやいや。私はすでに畑のビギナーじゃない。

ビギナーとは、すなわち過去がないのだ。
畑の最初の時、私には、畑に対しての過去がなかったのだ。
そして今、庭に対しても、庭に野菜を植えるという過去がなかった。

それは何を意味しているかというと、それにまつわる記憶がないと言うことだ。
ゼロ。ナッシング。
真っ白なあたまで、庭に、畑に、種を蒔いた。
庭と畑の最初の爆発的ないきおいの共通項はそのことだけだ。

ほぼ縁の下にジャガイモ植えた。どーなる???


過去。
最近そのことについてよく考える。
もし私たちに過去の記憶がなかったら、苦しみはない。
あのとき、あんなことされた、あのとき、あんなことしてしまった、
いいことも悪いことも、思いだしては比べ、嘆き、それを元に未来を想定し続ける。
過去の後悔と、未来の望みに翻弄される。

自分にまつわることもそうだ。
私はこんな過去をもっていて、こんな肩書きをもち、こんな性質をして、、、、。
その自分の過去が、自分をふりまわしていることに気づく。
こんな状況になったら、こんな風になってしまう私!そうならないためには、ああやってこうやって!と、そうならないための苦労をする。

ん?まてよ?今そんな状況にあるのか?
まわりを見渡せば、そんな状況にない。あたまがそれをイメージして大騒ぎしているだけだ。

そんなとき、過去を消してみる。
私の背中からずーっと続いていると思っている過去を、ぱき。と切ってみるのだ。

目の前には静かな光景。
いきなり静かになる心。
自分に対するたくさんのレッテルがない。
ゼロ。真空。すべてが止まる。時間がなくなる。


私たちはつねに時間の中にいる。
畑に種を蒔く。芽が出る。大きくなる、という時間がある。
すると次には、大きくしなければいけない、育てなければいけない、という次の観念が動きはじめる。
起きる時間、仕事に行く時間、ノルマをこなす時間、スケジュール、死に行くまでの時間、、、。
その時間の中で翻弄され続ける。

時間が止まる経験をすると、当り前だったはずの時間というものが、すこし苦しく感じはじめた。

ビギナーズラック。過去のない自分。
私はずっと、ビギナーでいられるだろうか。


無肥料栽培の白菜の育苗は全滅w




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