自分の感覚だけに集中するという実験をやった。
自分が今もっているもの、それに触れている感触、触っている温度、ふわふわ、ざらざら、の、手の指に感じている触覚、立っている感じ。
そして胸の内側に何かしらある緊張感、今そこに聞こえている音、、、、、などなどに徹底的に集中してみる。
すると、心の中の「言葉」が消えていた。
いつもは、自分を罵倒する言葉があたまの中でぐるぐると繰り返し鳴り響いていたり、言葉にならない否定的な感覚や衝動が起こり続けていたのに、それがまったく消えていたんだ。
また、その感覚の中にいるとき、人と話しができづらくなった。
感覚と言葉は、違う所にある。そう感じた。
感覚は、今感じている。今にしか感じられないものだ。
しかし言葉は、今にいない。過去とつながっている。時間とつながっている。
自分の心の中で、自己嫌悪や罪悪感や自己否定が渦巻いているとき、それは言葉の渦だった。言葉にならない衝動でさえも、その根底には言葉があった。
そのとき私は今にいない。
今この言葉を書いている今も、今にいない。言葉は今にいさせてはくれない。過去を振り返りながら話しを書く。
だがそれが悪いわけではない。ただそういうもんだと知る。
感覚の中にいたとき、静けさがあった。存在だけがあった。動いている手やカラダは、ただ動き、私はそれに「乗る」。
動きはどんどん速やかになっていった。
心に「痛み」を感じたとき、そこに言葉があった。いつもの否定的な言葉だった。
知らないあいだに、言葉に乗っていたのだ。
「あ、感覚、感覚っと」
また感覚の中に入る。
言葉は消えていった。
最近、カラダに乗る事を覚えた。
私たちは、ほとんど考え事と一緒に動いている。ほんの先のことに向かって、歩いている。ドアのノブひとつ触るにも、そこに意識はない。そのドアの先にあるものに意識がむく。先へ先へと心が向かっている。
つまりほとんど心は今やっていることにないのだ。あれやったら、つぎこれ、みたいな。
わたしはちいさいとき、「のろま」といわれたので、やることなすことが遅いというレッテルを自分に張っている。だからどこか焦って行動をしている。
なので、今、動いているその先をめざさないと、とんでもなく遅くなるという怖れがあった。
しかし今はその考えを変えた。
ドアのノブを回すときは、ドアのノブを回すことに、乗る。
畑に向かうときも、心は畑に行こうとするが、歩くことに乗る。
洗濯物を畳むときは、ただ洗濯物を畳むことに乗る。
畳んだら、あれやって、これやって、、、と考えの中にいたときより、ずっと穏やかになった。
畳むことに注意を払って、畳んだあとは、その次のことが浮かぶ。
そのとき浮かんだことをする。
考えの中にいたときは、どこか苦しかった。ああ、あれもやらなくちゃ、これもまだやってない。。。ああ、やりたくない。。。というおもいで、カラダが重くなった。
ただ今やっていることに乗ると、心もカラダもシンプルになった。
きのうやった実験もその延長線上にあった。
今朝目が覚めたとき、言葉が動き始めた。
「あ、今過去にいるんだな。。」
そう気がついたとき、言葉が消えていった。
絵:絵本「The Drums of Noto Hanto」より
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