2012年11月21日水曜日

大人のいじめがいっぱい



ある学校で、子供たちがいじめをなくすパトロールを始めたというニュースを知った。
いじめをなくすという旗印を掲げて、構内をねりあるく。
「いじめをなくそう」「いじめを見たら報告しよう」などといいながら。
あちゃー。
その行為自体が、そもそもいじめになるのではないか?

そんなことをすればするほど、いじめは人に知られないように陰に潜む。なお分りにくい歪んだカタチになっていく。

いじめをみつけることはいいことだと思うと、どこかにいじめはないかと監視がはじまる。だって「はいっ。わたし、いじめをみつけました!」というと、「よくみつけました。えらい!」ってほめてもらえるんだもの。すると友だちのなにげないいじめを密告する様な状態を生みかねない。そのうちみんながどこかでその密告にびくびくとおびえながらいきることになってしまうのではないのか?


いじめは「裁く」心から来る。相手をさばくと自分が優位にたつ。
「いじめをなくそう」とおおでを振って歩く行為は、優越感を生む。
いじめはわるいこと。だからそれをなくそうと、いいながら歩くことはいいことだ。という善意の大義名分にのっかって「良い事をする自分」をよろこんでいるようにやまんばにはみえる。

いじめの前に裁くきもちがある。その裁くきもちの前に、これはいいこと、これはわるいことという絶対的定義がある。すべての発端は、善悪からはじまる。

勉強できない子は悪で、出来る子は善。
足の速い子は善で、のろまは悪。
ケンカ強いのは善(表向きは悪とされている)で、ヨワッチイのは悪。

勉強のできないケンカの強いジャイアンみたいなやつは、自分が勉強で負けているという劣等感から、弱っちいのびたみたいなやつを、はらいせにいじめる。
わたしたちは小さい時からすでにいいこと悪いことという基準の中で育っている。その物差しではかられた自分はいけない子と思ってしまうと、その罪悪感をどこかで解消しようとする。いじめる側は必ずどこかに劣等感を持っている。いじめられた方も、自分に落ち度があるんだと自分にレッテルをはり、彼もまた劣等感の底なし沼に入っていくという連鎖を引き起こしていく。

そもそも大人の世界に優劣が存在する。それを子供のうちに学校や家で知る。その優劣の判断によって、自分はこのままではいけないのだという劣等感を生む。
家では両親がお互いの悪口を言いあう。給料が少ないとぐちをこぼす。近所の家の悪口を言う。政治家の悪口を言う。世の中が悪いと怒る。犯罪者をののしる被害者の親を見る。悪はイケナイのだと悪をののしる。
子供はそれを見て育つ。そうするものだとおもう。

それがイケナイのか?
いや。いいも悪いもない。子供はこの世に生まれて、強烈な3次元の世界と出くわす。この世はこんなにも複雑なのかと圧倒されながら育つ。ここで生きていくためにどうやったらいいのかともがく。カモの子供は最初に見た動くもののあとを追いかけるではないか。子も必死になって身近な大人のマネをするだけなのだ。

そんな彼らを裁いていいのだろうか。

この世は大人のいじめでいっぱいではないか。



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