「心はコトバである」
谷口雅春さんの言葉だ。
昨日ポストに小冊子が入っていた。ぱらぱらめくるとその言葉が目に入った。
まさに、心の中は言葉でうめつくされている。感情の高ぶりも言葉でおおわれている。ほんなら、コドバを知らなかった赤ん坊の頃は言葉を知らないので、心がなかったんだろうか。いや、おなかすいたとか、かなしいとかさびしいとかあった。心の動揺があった、だから心はあった。とおもう。
しかしそのおなかすいたとか、寂しいとかという感情の高ぶりも、やはり言葉だ。はじめに動揺がある。それに「これはおなかすいたという種類だ」とか「これはかなしいという種類だ」とか「これは怒っているのだ」と感情の高ぶりに分別を与えたのはニンゲンが言葉を持ったからだ。
もし、人間が言葉を持たなかったなら、その人間は、ここまで心の中が言葉で埋め尽くされていたのだろうか。いや、言葉がないので、ただ動揺だけがある。
しかしその動揺は、ここまで私たちの中を始終埋めつくしていたのだろうか。
4 件のコメント:
確かに言葉が感情を増幅したのは、間違いないでしょうね・・・。
ぱぱさ〜ん、
去年はお世話になりました〜。
今年もますますお世話になりますーーーっ!
きのう、酒もって千鳥足でぱぱさんとこ寄ったら(おやじか)、お出かけでした。ざんね〜ん。その帰り道に地面が揺れた。
初めての投稿です!
昨日、友人に同じようなことを指摘されました。
「言語に囚われて、自分の心をわからなくしてしまっている」と。
確か、シュタイナーは「気分」が重要であると書いていたのも思い出しました。
匿名さん、いらっしゃ〜い。
ことばってねえ、やっかいなもんです。
自分で自分のコトバに翻弄されるんですね。
よくいわれる「無心になれ」っちゅうのは、そのこわさを知ってろよってことなんでしょうね。
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