2011年4月17日日曜日

厄介な心




心という代物は、私達にとてつもない影響を及ぼしている。その影響は、言葉で言い尽くせない。こんなに便利な時代になって、こんなに医療が進んでも、人の病気は全くへらないし、人の心は幸せになっている様子もない。むしろ、精神的な病いがふえている。

コンビニでおいしーケーキが安い値段で買えちゃって、わ〜い!ってよろこぶ。だが食っちまったら、その喜びは終わってしまう。その喜びをまた得るためにまた買う。そしてまた消える。大人買いする。結局食べ過ぎて太る。太るとやせなきゃと思い、ダイエットする。ダイエットしてもうまくやせられない。だんだん身体の調子が悪くなる。病院にいく。医者が病名をくれる。薬をもらう。心はこの病気が治れば、またあのおいしいケーキが食べられる、と考える。病気が治る。コンビニでケーキを買う。また食べたいから、また買う。足りないので、大人買いする。太る。ダイエットする。ストレスたまる。食べたら吐く事をやってみる。すると身体は食べると吐こうとする。そして。。。。

こんな事をやっている犯人は何だ。心だ。心はとてつもなく私達に「なんかしろ」と訴えてくる。そしてそのいわれるがままに行動すると、そんなに幸せじゃない方向に向かう。心は常に動き回って、あっちじゃないこっちじゃないと私達を翻弄する。それに気がつく事はとても大事だ。

コンビニでケーキを買う。おいしくって、また買おうとする。その時、「あ、買おうとしている私がいる」と気がつく。心がほしがっているのだなと気がつく。それだけでいいのだ。すると心はそれ以上進まなくなる。

誰でも、誰にも知られず悪さするのは楽しい。しかしその悪さは、誰にも見られていないからムフフ。。とやれるのであって、誰かにそのさまを見られてしまうと、
「え。。。?見てるの?見ないでよ。。」
と、ムフフの快感が得られなくなってシラケてしまい、なんだか悪さ出来なくなる。

どうも心はこのようなうごきをしている。私達は心が勝手気ままに動くことに、私達自身が振り回されているようなのだ。
仏教の教えでも、無心になれとある。無心になる理由は、そんな心を追いかけるなといっているのだ。そんなどうしようもないうごきをする心にとりあうなと。心とはそういうやんちゃなものなのだ、それを追求しても意味がないのだということを理解する事なのだ。

たぶん仏教は最初はその事も教えていたかもしれない。しかし今はその無心になるためのメソッドだけが残ってしまった。念仏を唱えるとか、決まった言葉を言い続けるとか、梵字をみつめるとか、一つのシンボルを見るとか。しかしそれは単なる無心になるための力づくの方法であって、それをやっていたって、やがて心はぱあ〜ん!と飛び出して、またはしゃぎはじめる。
コントロールする事ではない。それを理解する事なのだ。知ればそれでいいのだ。

やまんばが自分の身体を信じるのは、この英知の結晶である身体にすべてを委ねるということをやってみたいのだ。この身体に敬意を表したいのだ。それがあるがままのすがたなのじゃないかとおもうのだ。


絵:TVぴあカットイラスト

4 件のコメント:

miki さんのコメント...

つくしちゃん

ふじいです。

いつも 学ばせてもらっています。

きょうは たけしちゃんの

いってきます :-)

たのしみです。

この間 ひらさんに 会いました。

相変わらず 少年のようでした。

つくし さんのコメント...

まあ、mikiちゃん、おひさしぶりです。いつもみてくれているのねえ。ありがとう。
武史の行ってくれてありがとう。ついでに広尾も楽しんで下さい。
平原さんは、いつまでも少年のようですよね。

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

金曜日はまだ、午後の予定が決まらない・・。
出来るようなら行きたいのですが・・。

つくし さんのコメント...

おお、来て、来て!
仕事として予定を入れておきましょう。