最近仕事を辞めた友達の話を聞いた。
彼女は勤め先の先輩にいつも仕事ができないことを指摘されて、
その度できない自分を責める日々だった。
仕事を辞めることが決まってあと数日という時、
先輩がなぜ彼女がそうなのかと、
責める心ではなく、
「どうしてなのだろう?」と尋ねる思いで聞いてきた。
彼女は指摘されると緊張してしまい、
頭が真っ白になって色々忘れてしまうのだと正直に話した。
それを聞いた先輩は、
「そうだったの。。もっと早くそんな話ができたらよかったわね、ごめんなさいね」と、
お互い泣きながら和解したという。
仕事納めの最後の日、彼女は先輩に「好きです」と告白した。
「コースが、体はコミュニケーションのために使うって言ってたから、
好きって言いたいと思ったんだ」
それは苦しみの日々の中、ふいに自分の心に気がついたことだった。
それを聞いた先輩はまた泣き、二人で泣いて。
最後別れるとき「飲みに行きましょうね」と言ってくれたそうだ。
そんな話を聞いて、私も泣く。
人が人に「好き」と告白する時、心が溶ける。
それは相思相愛になることを目的とする恋愛とはちょっと違う存在の恋。
私にも好きな人がいる。
会うたびに「こいつ、たまらん。好きだなあ。。」と思う。
そう思うとき、その人と私は溶け合う。
どっちが私でどっちが彼女かわからなくなる。
本当は全く同じなんじゃないか?とさえ思う。
そう思いながら周りを見渡すと、
あの人も好きだし、この人も好き、、、と辿っていくと、
なんだ全員好きなんじゃないか!と気がつく。
その彼女は、ある時病気していたお母さんに
「好き」とラインスタンプを送った。
するとすかさずお母さんからも「好き」のスタンプ嵐がやってきた。
それからお母さんはメキメキと元気になっていった。
その体験から彼女は思う。
「なんか~。そこに、ただ好きというところにいられたらいいんかなあって」
その気づきはとても大きいように思う。
どんな慰めの言葉よりも、励ましの言葉よりも、共感よりも、
瞬時に大きなギフトが送られる。
人に「好き」と伝えることは、すなわち自分に「好き」と言ってることだ。
自分が好き。
それは本当の本当のところ、もともとあったものなのだ。
神の子が自分を嫌うわけがない。
嫌うことになったのは、あれをしなさい。これをしちゃダメと、
自分が自分でいられないことを学んできたからだ。
自分はこうであってはいけない、
あの人のようにならなければいけないという、自分への否定。
こういう概念が私たちに放り込まれるにつけ、
私たちはどんどん自分が嫌いになっていく。
そして今の自分じゃない、あるべき姿を追いかけるようになっていく。
ナイチンゲールやリンカーンは、彼らだからこそ、そうなった姿だ。
誰も誰かのように、コピーできるかのように、なれるわけがない。
私たちが学んできたことは、元々の自分じゃないものを学んできた。
学ぶものは、もともとないものを「学ぶ」から。
でも元々の私たちは真実を既に知っている。
だから真実は学ぶものじゃなくて、思い出すものなのだ。
自分が好き。
そう思う時、内側がパワフルになる。
自分そのままでいいのだと思う時、
何もする必要がなくなる。
恋をしている時、ただそこにいるだけで良い。
自分が自分に恋をする時、
大きな喜びが、大きな花束を抱えてやってくる。