2024年10月27日日曜日

癒しについて

「ねこじゃらし」和紙、水彩

 

「癒し」について書いてみる。


奇跡のコースには癒しが必要だとしょっちゅう書いてある。

私は癒しってピンとこなかった。


「癒し?はて?なんのこと?」


SNSで、ネコを見て「は~癒されるう~」というのを聞いて、

「そりゃーまあ猫は可愛いに決まってんだろが。それのどこがどう癒されるんだよ」

ってな具合になんかウザい感じがあった。


だからコースに「あなたには癒しが必要だ」と書いてあるのも、

「なんかウザい。。」と思ってた。


ところがある時、ものすごーく辛くて辛くてどうしようもない時、

「癒しを求めなさい」という言葉に触れて、思わずすがった。

「私には癒しが必要です!癒しを私にください!」




それからどこでどうなったかは記憶にない。

私に癒しが訪れだした。

なんとも言えない暖かさに触れて、

「は~癒されるう~」になったのだ。

ただぼーっとしているだけで満たされて、

ゆるんで、幸福感が現れてきて、ウキウキし始めた。


そしたら人と道であってちょっと話しただけなのに、

「あ~つくしさんに会えて癒されるう~」とか

「人は間違うもんです」と言っただけで

「はあ~、癒されるう~」とか言われだす始末。

私何もしてないんですけど。


癒しを求めたら、癒しが私に取り憑いて

ぬらりひょんみたいな「癒し妖怪」にでもなったか?




癒しが近くにあると、赦しもくっついてくるようで、

いろんなことがそんなに深刻でなくなってくる。


人の噂話もニヤニヤ聞ける。

AさんがBさんを嫌ってても、その理由を聞いてもそりゃあ、

その一理はある、嫌う理由もわかる。

だけどそれを聞いても私はAさんもBさんも大好きなままだ。


みんな愛を求めて「私を愛して~」と言っているだけなのだから。


愛を求めていることはみんな同じだ。

私もAさんもBさんも。

みんな一緒。

そこの視点に立つ時、自分だけがいいものになったり、

自分だけが悪者になったりしない。


形を見ると、形にとらわれる。

どの形が正しいかということに終始する限り、幸せはやってこない。

それは罪悪感を形の中に隠蔽しているだけだから。


そっちを必死で見ても答えは出ない。

形は罪悪感とくっついている。

その形の向こうを見る。


そこには形のない何かがある。

AさんやBさんといった分離がない何か。

互いがつながった何か。みんな一緒だという何か。


癒しはそれを思い出させてくれるそよ風みたいなもんかな。

そよ風が吹いて、「こっちだよ~ん」とそちらに向かせてくれる。


ああ、そうだ。こっちだった。こっちこっち。






和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです

2024年10月24日木曜日

ぜんぶが数珠繋がりになっている

お嫁入りした『山笑ふ』

 

郵便局に行く。帰りに焼き団子を買う。

最近近所にできた和菓子屋さんで、どら焼きを買い、

新メニューの 「カフェラテあんこ」なるドリンクを購入。

店の前で立ち飲みしながら、店主と知り合いの養蜂家の話になる。


その足で駒木野庭園に遊びに行く。

お目当ての園長さんは大事な会議中。

思いついてどら焼きを渡したスタッフさんと深い話になる。

途中でダンナから電話。

内田くんが千代田稲荷の掃除の帰りにうちに寄るという。

でも深い話がさらに深い話になり中断したくない。さらに深い話に進む。

しばらくして庭園にお客さんがやってきた。

それをきっかけにうちに帰る。

まだ内田くんはきていなくてホッとする。

と、ピンポーンとなるのでドアを開けると、近所のオヤジがたんまり銀杏をくれた。

おとつい前の川で洗ってたやつだ。


それから内田くんが来ると同時にダンナも帰宅。

ダベっていると話しの中でこの前買った蜂蜜が欲しくてまとめて買いたいという話になり、養蜂家に電話。滅多にケータイ取らないのになぜか出た(笑)。ついでに和菓子屋さんが会いたがっているということも伝言できた。そしてちょっと風邪気味だという内田くんの奥さんへと銀杏も渡せた。


なんかぜんぶが繋がっている。

ふと思いついたことや、出来事が数珠繋がりになっていることが増えた。


郵便局へ行くのは普通だとして、焼き団子買ったんだから、別にどら焼き買わなくてもいいではないか。ふと思いついてどら焼きを買い、ふと思いついてドリンクを買って、そのまま店主と話して養蜂家の話になってそれが私の知り合いだと知る。後で彼に電話することになるとも知らず。

ふと足が庭園に向かい、スタッフさんにどら焼きを渡し、そこから滅多に聞かない話に展開。互いに貴重な時間を過ごす。キリのいいところで庭園にお客さん。帰ったらオヤジが銀杏。内田くんの奥さんへのお土産が勝手にやってくる。(焼き団子を渡すのを忘れたけど笑)




先日生まれて初めて二万円もする枕を買った。(普通の値段なのか?)

枕はいつも高めにするのだが、これはめちゃ低い。でもそれが体にいいというのだ。

説明を聞きながら別に買う気はなかったのに、なぜか「買う」と言ってしまった。

で、実際それで寝てみたよく朝、首が痛い(笑)。

今までは、買ってしまったことにものすごい後悔が起こり、自分を責めまくっていた。

でもなぜか後悔はない。寝心地悪かったらやめればいいや、などど金持ちがいいそうなことを思うだけだ。

その売り子のおねえちゃんがすごく可愛い。

私の名前が不思議だというので、「古事記」から取ったというと、えらく興奮して「今古事記勉強しているんです!」という。また深い話になる。楽しい。




毎日目まぐるしく出来事が起こる。

でもそれをそのまんまほっておく。

勝手に連れていかれるままにする。

勝手に思いつくままに行動する。

その出来事に後悔したり焦ったりするのもそのまま味わう。


一瞬解釈するけれど、そこから先は追いかけない。するとそれで終わる。


現れては消える目の前のドラマをニヤニヤしながら見ている。

だから心はヒマだ。


トレーニングジムの重いマシーンをやった後、

そのまま座ってそのひと時をじーっと味わう。

周りでマシーンを使っているオヤジたちの存在もじーっと味わう。


私が空間になっていく。

幸せが広がっていく。




追記:二万円の枕三日目、背中が伸びる感じがする。首の痛さはもうない。









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2024年10月21日月曜日

海沼武史写真集『廻向~transfer~』と『奇蹟 Lumière 』について思う


 

海沼武史の写真集は、もうお手元に届いたことと思います。

この2冊の写真集について、私なりに感じたことを書いてみたいと思います。



横の『廻向~transfer~』と縦の『奇蹟Lumière 』の2冊は、

たまたま横位置の写真と縦位置および正方形の写真に分けたかのように見えるが、

この二つには深い意味があって分けられていた。


横位置の本『廻向』は、横軸の世界が、

そして縦位置の本『奇蹟』には縦軸の世界が流れていたことに気がついた時、私は鳥肌がたった。




『廻向~transfer~』は、この世界の営みだ。

チャプターⅠは、早朝や夕暮れの八王子の風景。

人々の営みの中で起こるあらゆる思いを、

マジカルアワーが優しく包みこんで、私たちに静かに語りかけてくる。


チャプターⅡは、震災直後の陸前高田での光景。

悲しみと美しさが、見る人の心を押しては返す波のように行ったり来たりさせる。


チャプターⅢは、閉ざされた場所に立ち、

そこでいつも見ている世界が映し出されている。

ある人はこれを「祈りだ」といった。



横軸とは、水平線。

エドウィン・アボットのフラットランド的に言えば、平面世界。

私たちはこの物理的平面世界の中であてもなくさまよう。

水平の世界に苦しむ私たちは出口を見出せず、チャプターⅢで天を仰ぐ。そこに祈りがあった。











『奇蹟Lumière』は、縦軸。水平から垂直への移行。


『廻向』で仰がれた空は、『奇蹟』でいきなり青空に変わる。

そのタイトル通り「光」を捉えている。



『奇蹟』は、光、愛、神への賛歌とも言える。


天から降り注がれる神からのギフトが、

青空、光をとらえた小仏川、光を食す植物たちやモノ、石たちに変換されて現れている。

そこに人間の苦悩はない。神はその苦悩を知らない。ただただ喜びが歌われている。


あとがきに「空とは物理的な現象世界で知覚しうる最大サイズの被写体」とある。

空が形なき被写体であるのに対し、

チャプターⅤは「その空が明瞭な輪郭を纏い、

『美しい存在』として自信を現す一瞬を定着させようとした」と。

まさに光が形をまとった姿。




『奇蹟』の最後は『廻向』に寄り添っている。

『廻向』は人が天を仰ぎ、『奇蹟』は神のその手が人に触れようとしている。


ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれた

ミケランジェロの『アダムの創造』のあの有名なシーンを思い起こさせる。


縦軸と横軸が交わったところにこの2冊の写真集を見る。

そこはすべてが融合し実相世界が垣間見えるところだ。




一見あまり人を喜ばせないかのようなこの2冊の写真集。


それを意識的に覗いていくことによって、

それを見ている人自身の内面が現れて、

知らないうちに解放されていくのかもしれない。


何度も見返したくなる不思議な写真集である。












2024年10月17日木曜日

心を吐露する

 

「みずひき草」和紙

心の中の苦悩を吐露する。


これがどんなに心を癒すのか、だんだん気がついてきた。

少し前、爆発的に怒った私がいた。心の中の思いを全部ぶちまけたんだ。

するとその夜、不思議に心が落ち着いていた。

あれ?なんだこりゃ?


それまでは自分が言ったことに後悔し、その苦しさにまた相手のことをエアー演説し、

その自分への後悔と相手への怒りが収まらず、ひたすら天に救いを求めてきた。


しかしあの時から、何かが変化した。

あんなに罵倒したのに、全く罪悪感がない。静けさと軽さがあった。


「あなたの思いをすべて私に渡しなさい」

コースは言う。


これが癒しなのか?




それから人が愚痴を言ったり怒ったりするとき、それをただ聞くようになった。


それまでは「いや、それはあんたも悪いでしょう~」と、さとすように言ったもんだった。

そしたら、相手もブチ切れて、大げんかになる。

私の考えとしては、

「どちらにも言い分がある。だからその相手の言い分も理解しないといけないのだ」

と話したつもりだった。

その結果大げんかが絶えなかった。




ある時、めったに愚痴らない人が、カフェで愚痴り始めた。

あれ?珍しい。。。


「長年兄弟のように思ってきた奴が、自分にあんな仕打ちをする。悲しい。」


私はそれを聞いて、そりゃあその彼の今の状況を考えれば、

そうなっても仕方がないよなあと思ったが、それを口に出すのはやめた。


今、目の前の人は自分の思いを吐露している。

それはとても大事な時間だ。

心の奥にずっと抱えていた思いを、少しづつ私の前に出してくれているんだ。


カフェの丸いテーブルの上に、その人の思いが置かれていく。

それは暗い闇の中に隠してあったものを、自ら光のもとに持ってくる行為だ。

その貴重な瞬間を私は優しい心で受け取っていた。


ただ、そうかそうかとうなずいた。何のアドバイスもせずに。



カフェを出て、その人は言った。

「そっかあ~。これを愛で見るんだな。愛で見ると、途端にあいつが愛しく見えてくる」


これが癒しなのか。。。


状況は何一つ変化していないのに、見方を変えただけで、心は愛に変わる。

歩きながら、私はその奇跡に遭遇し、心が震えた。




この世界はいつも問題解決に忙しい。


あいつがああやるから、それに対してどう対応するか、

どうやってあいつを説得するかなどという考えになる。

具体的にどう行為をするか。何を「する」か。


それはあいつと自分が分離したままで、そこに融合するものなどない。

この世界の具体的な解決方法に、つながりや喜びはないのだ。


しかし奇跡は何もしない。

苦しい思いを光のもとに持ってくるだけでいい。

それをどう解決するかは「『私』に任せなさい」という。

それで勝手に何かが解決している。


自我まみれの私たちには何もできない。

ただ「あなたの思いをすべて私に渡しなさい」というままにすればいいのだった。


唖然とした。

たったこれだけでよかったのか。。。


それは人と一緒にやるといい。

一人で日記に思いを書き連ねているより早い。

人と一緒にそれをただ見る。

それだけでその闇は浮上し、消えていくのだ。


例えば夫婦が、それぞれの仕事場で辛いことがあるとする。

二人でゆっくり話せる時間を作って、仕事場でのぐちを吐露するのだ。

相手はただその話を聞く。ウンウンとうなづく。

それだけでいい。何のアドバイスもいらない。何の解釈もいらない。


そういう時間をわざわざ作る。

それが癒しになる。

何をどうこうする必要はない。

心に溜まった隠しておいたものをただ話す。そしてただ聞く。

それがたとえお互いの文句であっても。ただ聞く。

(それはなかなか難しいけど笑)



吐露する。

ただ聞く。


癒されていく。


その関係は、自分は一人ではないことを教えてくれる。

一人で解決できるものではないことを教えてくれる。








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